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「未来への伝言」核兵器のない世界を・・・
~町田市原爆被害者の会(町友会)編 「未来への伝言」被爆の証言を伝え、核兵器のない世界を~

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長崎で被爆した人たちはいま

塚本忠昭

(当時二才)

 私が被爆したのは長崎市勝山町の勝山国民学校のそばと聞いております。
 現在は自分が被爆したため、不具合は発生しておりませんし、両親もとくに大きな問題は出ておりません。一番心配した子供への影響もなさそうなので安心しています。

 被爆に関しては時に思い出すことがあるだけで、五十年すぎたので、これからは影響が出ても仕方がないとあきらめることができますが、子供が生まれたときが一番心配でした。今後孫への影響を心配しなければならない年になりました。


久永秀夫

(当時三十一才 海軍航空廠軍属)

 B二九が上空にみえ、ピカッと光り、すごい音がしたあと、長崎方面にきのこ雲が上がった。パラシュートで何か落ちるのをみた。長崎に新型原爆弾が落とされたので防空壕に入れ、との事だった。海軍航空廠は爆心地から三十キロ以上もはなれてるのに窓がふきとばされた。

 長崎より大村の方が陸海軍施設が多かったが、すでに空襲で破壊されていたので長崎に投下されたのではないかと思っている。
 翌八月十日朝十時、トラックで長崎の三菱重工付近まで救援に出動する。

 道にも着いたところにも黒こげの人がいっぱいで、手をさしのべ、「水、水」と私に求めてきたが「水をあげると死ぬ」と止められた。男女の区別もつかぬほど焼かれ、トラックにひきあげようとすると、ズボっと骨まで指が入り、どろどろでひきあげられない、すさまじい状態だった。
諫早(いさはや)付近で息のある人は赤十字のマークのある天幕張り救護所に、死んだ人は別のところに降ろし、当日更にトラックで一往復した。 翌朝十一日第三回めの救援のトラックに、こんどは自分が気分が悪くて乗る事ができず、海軍病院に入院、治療をうけることになった。

 残務処理のため航空廠が解散となったのは終戦後一ヵ月半位あとで、大村の自宅に帰る昭和二十三年、長崎市淵町で被爆して大村に帰っていたIと結婚、二十四年長男出産、長崎市に移り自営業を営む。昭和二十七年次男が生まれるとABCCから生まれた子の調査に来る。
母親がついて行こうとすると、有無(うむ)をいわさず子どもだけジープでつれていき、何を調査したのか何の報告もなかった。自営業の頃、白血球が少なく、胃潰瘍(いかいよう)で胃に穴があき、一時、だめではないかと言われた。

 自分は小柄で、兵隊にとられる前に志願して海軍軍属となり、軍属をまとめる役になるまでがんばった。スマトラの西端サバン島では四十日間米の食事がなかったり、艦砲射撃(かんぽうしゃげき)で海に投げ出されたり、部隊二八四人中三一人しか生還しなかったり、九死に一生を得て被爆して、体はいつも弱かったが、ここまで(きて)原爆で死んでたまるかとがんばった。

 昭和三十四年上京、町田市旭町東京研究所につとめ、ついで三菱化成生命化学研究所で働き六十五才で退職、森野で生まれた長女は今でも出血しやすい。町田に来てからも胃潰瘍は続き、二度こんどはだめかといろいろあった。
会社勤務の頃は、仕事に、子どもの入学、就職、結婚にさわりがあるかと原爆の話はせず、被爆手帳も使わず、会社の健康保険で医療を受けてきた。

 昭和五十年頃、東友会のことを知り、電話をして運動に参加したいと願い、新聞「東友」に記事が出て隣家に本田祖さんがいられる事が分り、昭和六十年町友会再建に参加、脚骨折事故もあったが、リハビリにつとめ、現在は足指の「えそ」で歩行困難、痛みに苦しんでいる。血がうすいのが原因ではないかとの事。

 核廃絶。
救援で入市して想像を絶する原爆被害をみた。自分は白血球が少なく、妻も血がうすい、長女は今でも口内出血する。子、孫、ひ孫たちへの影響の心配は絶えない。広島、長崎の原爆被害、核戦争は二度と決して繰り返してはならない。


別宮安春 

(当時二十才 長崎浦上にて被爆)

 八月九日、諫早駅で黒い雨にあい、午後六時浦上地区に入り、重傷者収容に当りました。

 被爆後現在まで関節の痛みやしびれ、低血圧になやまされ、ボケもプラスして暖かくなるのをまっています。世界のどの国も原爆の保持、使用には絶対反対です。


尾上重男 

(当時十四才 学生)

 私は長崎市外長手町高田郷の雑木林で松ヤニ採集(爆心地から四キロ)中、凄(すさ)まじい風が一瞬山の斜面に吹きつける、耳鳴りはその時からである。

 救出されてくる人々は、毛布にくるまり、顔だけ出してリヤカーにのせられ、身動きできる人は少なかった。どの顔もどの顔も石炭の固まりのように、髪は焼かれ、顔から身にかけて、白いところはほとんどない。
 目は開けることもできない。目を少し開けられる人は閉じることもできないのである。
 顔のところどころ、ひっかいたのか、皮膚がむけ、たれ下っている人もいる。学徒動員で兵器工場へ行っていた十三才の女の子の顔も全く同じであった。この子は翌日亡くなった。冥福(めいふく)を祈る。

 被爆の時より耳鳴りが始まり、何ヶ所かの病院へ行ったこともあるが、治らないということである。そのためのハンデは大きかった。広い会場の場合、とくに聞き取れない。現在もそして今後も背負っていくと思う。六十才をすぎてから体力の衰えが酷(きび)しいのか、内科医の話では十年位年取ってくるような体であるとの診断である。その様なことなのか、色んな病気にかかりやすい。一年が二年の進みのように思われる。

 わたしのようなこの体験は、誰もが体験すべきではない。体験した私たちだけで充分である。この現実を為政者(いせいしゃ=政治家)は十二分に理解し対処されるべきである。過ぐる日と共に暗雲の彼方(かなた)へということは許されるべきではない。

 犠牲になられた方々は、生きている限りその時の傷を背負っていかねばならない。国は一日も早く救済の手をさしのべることこそ平和国家日本といえるのではないでしょうか。その日が一日も早く来ることを強く訴えたい。


南波忠男 

(当時十八才 川崎汽船船員)

八月十日長崎市城山町にて入市被爆。私は自宅待機中で、八月九日朝、伯父の家に別れを告げに行く為家を出、途中日見峠で防空壕に入り助かりました。
 翌日市内に入った時は、死体が数えきれないくらいに浦上川に浮いて流れて、男女の区別もつかない位に黒こげの死体、あの時の姿は今日も目に残っています。
 原爆だけでなく、戦争の犠牲になった人の事を思い出すと、二度と戦争のない世が続いてくれることを祈ります。幸いにも私は何とか生き延びて良き伴侶と子供たちに恵まれて生活しています。
 永遠の平和を祈念して。。。



久保田照吉

(当時十一才 小学生)

 私が長崎で十一才の時に経験したことをお話します。私は十一才だったのではっきりしたことはよく覚えていません。父、母、兄から聞いたこと、それが頭の中に残っております。長崎の夏はとくかく暑いんです。

 帽子をかぶっていても頭がじりじり暑い日でした。あの日の朝空襲がありまして、私は母につれられて約二百メートル離れた防空壕に非難しておったんですが、解除になりまして、やっとじめじめした防空壕の中から家に帰りました。昼前だったので少し外で遊ぼうと近くの山で弟と蝉(せみ)をとって遊んでいたんです。

 “おなかがすいたね”といって二人で家に帰りました。その時です、ピカッ--ときたのは。光ったのは、赤だったか黄色だったか、一瞬の光線で目がつぶれたようで何も見えなくなりました。母が
 「爆弾がおちたよ、早くふとん被(かぶ)んなさい」
 と言いました。しばらくしてからやっと目の前が少しずつわかるようになりました。自分の横にはタンスが倒れ、仏壇(ぶつだん)が倒れ、立っているものはみな倒れていました。

 あの原爆の光と熱、爆風、放射能が長崎をおそったんです。あの原爆の熱六〇〇〇度といわれています。鉄をとかすのが一六〇〇度といいますから四倍近くの熱です。人の体は真黒、炭と同じになります。

 爆心地の近くの人たちは黒焦げです。ぼくは幸いにしてお陰で難を逃れ、家にいた者も、三菱造船所にいた父も山のかげにいて家族六人無事でした。

 町内の方が、あの時はよく見ていないからよく分らなかったのでしょう、あっちにもおちた、こっちにもおちたみたいだ、と。まさかあの一発の大きな爆弾がおちたとは知りません。広島に新型爆弾がおちたという話はあったんですが、まさか長崎におちたとはわかりません。しばらく防空壕の中へ非難したあと家に帰りました。

 家の中はものすごいガラスの破片、食器の破片、窓ガラスは全部割れ、ドアも吹きとんでない。
 二階に上がると、畳(たたみ)がぐっと持ち上がったようになっている。前が石垣だったものですから、爆風がぶつかって家の方にはね返ってきたような形になっていました。建物も全部倒れるし、でも、弟がちょっと頭をけがしただけで何とかみんなぶじでした。

 夜になると、あちこちから怪我(けが)人が帰ってきました。着ているものはボロボロ、隣にいた佐藤さんという娘さんはぼくより五才上で、かわいくてきれいで、長い髪をしておられましたが、その方が見るも無惨(むざん)に、頭の毛はちぎれ、背中一面火傷で這(は)うようにして返ってきたのを見ました。
 なんとも言いようがなかったのですが、後で聞くと、やはり爆心地近くにいて被害にあったというのです。

 翌日になって父が山の上から長崎市内を見、長崎一面が火の海になっている、火事だ、うちは大丈夫だろうか、そんなことを心配しておりました。
 長崎市内でいったい何が起こったんだろう、大きなガスタンクがあったから、あれが爆発したのだろうか、そんな話をしていましたが、それが原爆だったのです。

 とにかくわが家は一家無事、その翌日から知人の安否をたずね、怪我人収容のため父は現地に行きました。
 一人でも多くの人を助けたい、自分の友人、知人が元気か無事か、それを願って手伝いに言った訳なんですが、そのため、当時は放射能をいっぱい吸ったなどわからなかったのですが、そのためその後父は寝たり起きたりの生活の中、十三年後に白血病で血液循環が悪くなって死にました。

 そういうことがあって、わたしたち家族は、終戦後食べるものもなく、米兵がやってくる、米兵がどんなことをするかわからない、殺されるかも分らない、早く逃げた方がよいというので、一家着のみ着のままで島原の方へ逃げたんですが、途中お弁当といいましても、おにぎり、ご飯が少し、お芋が少し入ったもので、水を少し持ち、夜逃げ同然、汽車で行けば一時間足らずのところ、それをとことこと、命ほしいために逃げました。

 道すがらたくさんの人が同じように歩いております。怪我人でしょう、大八車にのせてごろごろ歩いている人、“もう歩けないよ”そういう子どもたちもつれて。
 真っ黒なところで青白い光が見えます。“父ちゃん、あれは何?”“あれはな、身内の死んだ人を焼いているんだよ”と教えてくれました。

 そういう光景を見ながらやっと諫早(いさはや)という駅に着いたんです。駅に着くと人の山です。みんな同じように長崎から逃げてきた人でした。
 横の方を見るとまるで死体のようです。たくさんの人が、まるで丸太を重ねたみたいに横たわっていました。どの位か、やっと切符がとれて汽車にのることができました。
 
 その中でまた悲しい事がありました。わたしたちの乗った列車は満員、デッキにやっと入ったんですが、若いお母さんが三つか四つの子を抱いて乗っていました。

 顔を見ると一面包帯、顔から胸にかけての火傷が痛々しい、“ヒロシくん、もう少ししたらおばあちゃんの家につくからね”、今でもヒロシ君という名前が思い出されます。子どもに繰り返し呼びかけていました。
 私も長く歩いたので疲れてウトウトしていたのですが、そのヒロシ君のお母さんが突然、大きな声を出しました。“ヒロシ、ヒロシ” その声で目が覚めました。その時が、そのこの最後だったんです。

 もう少しでおばあちゃんの家に行ける。もう少しだったんですが、幼い命はもたなかったのです。お母さんの腕の中で亡くなりました。
 うちの母も周りの人もかける言葉もなく、ただ合掌(がっしょう)、泣いておりました。暑い夏がやってくると、どうしてもこの列車の中の出来事が思い出されます。

それで島原へやっと逃げて行ったんですけど、約一ヶ月は疎開(そかい)先でどうにかせいかつしたんですけど、やっと長崎の方に父たちがいったん帰りまして、別に異常がないようだから帰って来い、ということで、長崎へ戻ることができました。でも、うちは窓もなにもなくて、ただ板をくっつけただけのあばら屋になっていました。

 それで私は昭和三十三年に東京に出て現在に至っております。二十六才で結婚しましたが、結婚するまでは自分の体のこと、放射能のことがやはり心配で、もし自分の子どもが生まれてきたら不具者が生まれるんじゃないかと、いろんな人から聞いて心配でした。でもおかげさまで丈夫な子を授けていただきました。

 現在町田には約三〇〇人の被爆者がおります。そういう方々も私のような心配をしておられると思います。そして被爆者はこの忌(い)まわしい、本当にむごたらしい話をしたくなかったんです。
 みんな忘れたいんです。でもそれができないんで、やはり皆さんに訴えて、みんなが平和な生活ができるように一日も早く全世界から核兵器を廃絶したい、そういう願いをこめて、私たちは皆さんの前で話すようになりました。

 今、世界には、広島、長崎に落とした原子爆弾の何十倍もの威力(いりょく)をもつ核兵器が五万発もあるといわれています。いざ戦争となれば使われるでしょう。
 もう二度とあってはいけないのです。かわいい子どもたちが一瞬のうちに死んでしまいます。そのためにも皆さんと協力して全世界から核兵器をなくしていきたいと思います。

 どうか私たちのこの運動にご協力いただきたいと思います。暗い話で申しわけございませんでしたが、これで終わらせていただきます。ありがとうございました。

(1989年公民館主催の平和のための市民講座、報告書より)



「未来への伝言」をまとめて   ----今改めてその重みをかみしめています----

わたしたち(町友会)が「未来への伝言」としてみなさんの体験をよせて下さい、と町田市内に住む広島、長崎の被爆者の方々によびかけてから四年が経過致しました。
 
 市内には、四〇〇人をこえる被爆者の方がおられるはずなのに(町友会と連絡のとれている方々は二八〇余)、なかなかいい返事はありません。
 あの日からすでに半世紀も経ち、お互いに年を重ね、記憶もすっかり薄れてしまった、いや、あの苦しい、残虐な悲しい思いは忘れようとて忘れることはできないものですが、体験者はそれぞれ、深い重い人生を歩いてこられたハズであります。

 ”ああ、あの方はついに証言を残さずに逝(い)ってしまわれた”とくやしい訃報(ふほう)が次々と伝えられます。

 せっかく証言をして下さったのに、完成本をお見せすることができなく亡くなられた方もおられます。

 核兵器は決して許すことのできない、残虐な兵器である。ことばの上では人間である限り承知しているわけですが、一日も早くこの地球上から核兵器をなくし、豊かで平和な地球を、との行動にはかんたんにつながらないのが現実です。

 だからこそ、わたしたち被爆者が自らの体験を証言していかねばならない責任がここにある、と思うのです。

 今ここに四十七人の証言をまとめ終え、改めてその重みをかみしめているのですが、証言して下さい、と呼びかけても、そう簡単には返ってこない意味あいがよくわかります。
 証言をすることがいかに辛いことなのか、苦しいことなのか、なぜ身近な家族にさえ語ってこなかったのか、発表して下さるなら匿名(とくめい)にしてほしい、仮名にして下さい、とのおきもちが痛いほどよくわかるのです。

 思い出したくない体験を、視力もおぼつかないのに必死でつづって下さった方、戦火に焼かれて死んでいった身内をみとった証言など、まとめながら涙をおさえることはできませんでした。

 現在、世界には五つの核保有国をはじめ、いくつかの国の、とくに政治的指導者の中には、核兵器の残虐性、反人類性が理解できず、「核兵器は国際法違反」との認識に立てず、「核抑止力」だの「核兵器の究極的廃絶」などといういつわりがまかりとおっています。

 生き残っている被爆者は生命のある限り、自らの体験を語り、訴えつづけます。


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  1. 2005/05/27(金) 21:04:34|
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長崎原爆体験記

長崎原爆体験記


山口勝信
    (当時十三才・中学一年生)

 私の生家は長崎原爆中心地から四・五キロ北にある、時津町(当時は村)元村です。

 私は当時東陵中学校の一年生で学徒動員により三菱造船所に勤務して約二週間が経っていました。 確か八月一日頃、三菱造船所も空襲を受け、私たちは裏山に掘られた防空壕の中で、約五十メートルはなれたところにも原爆が落とされました。
 防空壕の中では人間魚雷のようなものが作られていましたが、私たちはその傍らに蹲(たたず)んで、爆弾が落ちる度に凄まじい震動に震えていました。

 八月九日は朝から快晴の暑い日でした。朝八時頃、警戒警報のサイレンが鳴ったままになっていました。私の当時の勤務は午後一時からになっていました。通勤列車の時間も考えながら、森淳之輔という友人の家に立ち寄ってそこで弁当を食べて出勤するのを常としていました。すると、病気療養中の兄が言いました。

 「午後の出勤なのにもう出かけるのか、それに警戒警報中じゃないか。六日に広島に新型爆弾が落とされたそうだ。多分原子爆弾らしいぞ。

 私は格別意にも介せず
「午後どうなるかわらかないし、早めに友人の家に依っていくから」

 と言い残して時津の家を出ました。

 森淳之輔の家は、長崎駅から左手の山手にある福済寺の裏山の小高い所にありました。長崎港が眼下に見えて、長崎駅が真下にありました。
 家の裏は段々畑で、山が迫っていましたが、港の見える南側は庭のようなかぼちゃ畑になっていました。その先は、家々の屋根が連なり、緑色をした福済寺の瓦屋根がひときわ大きく、長崎港に浮かんでいるようでした。
その港の対岸がこれから出勤する三菱造船所になっていて、クレーンが動いたり、時々白い煙が立ち上がったり、様々な町の騒音が反響したりして、田舎育ちの私にはとても魅力的な光景でした。畑の傍らの水道で手を洗うと、まるでお湯のようでした。

 真白くピカピカと輝く港を見ながら早めに弁当を縁側で食べ終えた頃、ラジオが空襲警報を告げました。---島原上空を北上中の敵大型二機あり--殆んど同時にカンカンと敵機来襲を告げる鐘がけたたましく鳴りました。

 「森君!防空壕はどこ!」
 と叫ぶや否や、兼ねて聞き覚えのあるB29の爆音が南東の空から響き渡ってきました。私はとっさに白いシャツの身を隠さなければならないと思い、下駄をぬいで縁側に上ったそのときでした。ピカ-ッ と目のくらむ閃光と フワ-っとした熱風のようなものを感じ、私は無我夢中で家の中の暗い方にかけこみました。

 多分十歩も走ったのか、台所みたいな感じがした瞬間、ガーンと顔に砂がめりこむ気がしました。一瞬、真暗闇となり、静寂な時が続いたようでしいた。
 「見えない、聞こえない、どうしたのだろう」
と思っていると、
「淳ちゃん」
という声が聞こえ、
「ハーイ」
という声に続いて、
「お友達は?」
という声が聞こえました。私はハッとして
「大丈夫です。私はここにいます」
と答えました。それでも闇がつづいていたので「どこ」という声を頼りに、少し明るい方に歩いていって、三人が手をとりあって
「怪我していない?」
「良かったね」
と喜び会いました。煤や埃で真っ暗だったのだと気付いたとき、お互いの顔が煤で真黒のほかは元気そうでしたが、おばさんの足から血が流れていました。

 家の中はすべてが滅茶苦茶でよく見ると、柱が歪んで今にも潰れそうなのに気付きました。怖くなって外にとび出ると、不思議な光景を見ました。
 真っ青な空の下は一面真黒い煤煙の海が静かに視界を広げていくのを見ました。汽車や電車やクレーンなど、町の騒音が一切消えて水を張ったような静かな瞬間がありました。
しかし、それもあっという間のことで、俄に人に悲鳴や泣き声、物の燃える音の渦に巻込まれました。煤煙の海の中に緑色の福済寺の崩れた屋根が見えました。

 「寺に爆弾が落ちたのでは」

 「それにしてもあの光はなんだったのだろう?」
 と言い合っているうちに、煤煙の中に長崎駅の屋根やビルが現れ始めて、群衆の悲鳴が私たちの山手の方に段々とかけのぼってくるのが解りました。
 「小母さん、もう火の手が近づいています。逃げましょう」
 と叫んでも、呆然とたたずむ親子には通じないようでした。そこへ一人の少女がずきんを被って息をはずませて登ってきました。
 「お母さん」
 と叫んで少女はお母さんにだきつきました。
 「洋子ちゃん」
「姉さん」
 と言いながら三人の親子はだき合って喜んでいました。森君の姉で活水女学校の三年生であることを初めて知りました。

 私は一刻も早く家に帰りたくなって、北の方向の長崎のN・H・Kの方向に憩うとしましたが、血相を変えて泣き喚く人達がどんどんこっちへ逃げてくるのです。
 やむを得ず、私は森君の一家と逃げるほかはありませえんでした。森一家は裏庭の小さな池の中に何やらどんどん投げ込んでいました。その中、いろんな人から
「浦上方面は全滅だ」
とか
「早く逃げないと危ない」
とか
「寺町の方は安全らしい」
とか情報が伝わってきました。
 私達は、福済寺に火の手が上り黒煙が天を覆う頃、燃える家を見捨てて、諏訪神社の方へ人波に沿って逃げました。西坂町の方から山越えで逃げてくる人達は、血を流しながら、ドヤドヤ徒集まってきました。
 その中に十人くらいの白人の捕虜が手錠をかけられていて、日本刀を引き抜いた憲兵に引率されていました。

 群集の中から
 「こんな奴らは殺してしまえ」
 と怒鳴る人がいました。

 私達は森家の墓地のある寺町の山裾に行くことになりました。西坂町の方向は、天に届くような真赤な炎の壁がゴーゴーと轟き、パチパチ、パン、パンという音を立てて凄まじい炎の風を見ているようでした。
 墓地にはたくさんの人が集まっていて、水やおにぎりの配給が行われていました。
私は時津の家が心配でしたが、どうすることも出来ず、山影の墓地で西北の空が炎に包まれ、天にゆらゆらと動く様子をみていました。
 下の町の方では消防車の音や人の呼び声が渦のようにわきおこっていて、山に抱かれた様な墓地では蝉が鳴いていました。私は訳もなく涙が流れて仕方がありませんでした。

 暗くなっても西の空は赤々と燃えていました。敵機来襲を告げる鐘が鳴り、私達四人は骨をおさめてある「セコ」の石蓋をあけました。中は結構広くて持参した蚊帳を下に敷きました。小母さんは
 「先祖と一緒に死ねたらいいわ」
と言いながら親子三人一緒に入りました。

 「山口さんも入りなさい」
 と言うので、私は爆弾が怖くて必死にもぐりこみました。黴の異臭が鼻をつき、周りは水がたまっていました。お骨を入れた壷が私の首の傍らにありました。敵機来襲は二回位ありました。

 カンパンを二~三個食べ水筒の水をすするように飲んで、毛布にくるまって横になっても、蚊がいたりしてとても寝ることはできなかったようですが、町の中が静かになると、夜が明けるのを待ち兼ねて、朝四時頃だったでしょうか、四人は森君の家に帰りました。

 跡形もなく焼けつきて、バラバラに割れた瓦と台所の流し台だけが残っているように見えました。畑のかぼちゃが焼けて半分くらい食べられました。どこからともなくニャーンと猫がすり寄ってきました。

 「玉ちゃん生きていたの」
 洋子さんは猫を抱きしめました。猫は尾を火傷していました。森君一家は諫早の親戚に行くことになりました。私はまた会う日を誓って西北町の方へ向かいました。

 もう五時か七時頃だったでしょうか。裏山を少し右手に回ると見晴しが急に開けて、浦上方面の緑一つなくなった西北の山々が、絵で見た砂漠のようでした。
 昨日と打って変わり、殆ど人影が見えませんでした。N・H・Kの近くで下の道路に出る道を探しても瓦礫ばかりで、いたる所で火が燻っていました。

 思い起こせば、私はそのとき下駄ばきだったのです。方向を定めてとびながら進みました。
 赤毛の馬が真青な腸を出して道に横たわり、行く手を遮っているのを見たときギョッとして足が竦んだばかりか、本当に家に帰れるのだろうかと思うと心細くなって座り込み、涙が出てきました。
 それからどのようにして下の大通りまで出たかよく覚えていませんが、遠くの方で人影が動いたり、人の声を聞くたび「ああ、生きている人がいる」と思うと勇気がわいてきました。

 電車通りに出ると、車輪だけ焼け残った電車を見て、汽車も電車も自動車も全滅したことを知り、これは兄が言っていた新型爆弾に違いないと思いました。
 茂里町の三菱兵器の所で私はがく然として立ち止まりました。ここには私の姉が働いていました。鉄骨がぐにゃぐにゃに押し潰され、焼け焦げた工場は無残でした。

 「こんな惨状では姉が生きているはずはない、もし生きていたとしても、どこかで大けがをして苦しんでいるにちがいない」と思って、近くの防空壕を探さねばと考えました。

 茂里町から長崎医大に通ずる旧道があり、ここは小高い丘が迫っていて、横穴式の防空壕がたくさんありました。近くの防空壕に行こうとしたら、血まみれの憲兵がサーベルで半身をおこし、
「水をくれ、水をくれ」 
 と必死の叫び声をあげていました。もう一人の憲兵が
「馬鹿野郎、水を飲むと死ぬんだ」
 とどなり、私が中をのぞこうとすると、
 「だめ、だめ」
 と手を振りました。防空壕の中は暗くて呻き声が聞こえていました。私はこわくて逃げるように、医大の方に走りました。
 医大前の電車の停留所の角に浜崎という靴屋がありましたが、焼け野原でした。この靴屋さんの若夫婦は、時津の私の家の
離れに疎開して靴を作っていました。ここでは、おばあちゃん夫婦と女学生のお嬢さんが住んでいたはずですが、人影はありませんでした。

 電車と自動車道路の交差する浜口町で、初めて歩いている人に会いました。頭髪はなく、頭は墨のように黒く、二つの目がふしぎにギョロギョロして白い歯が見えました。
 着物はボロボロで杖をついてまるで影法師のように私の方に近づいてきて、
 「ぼっちゃん、怪我しとらんとね、よかったね、先へ行けばもっとひどかばい」
 と言いました。私は恐ろしくて逃げようと思っていましたが、本当にほっとしました。私は何も言えず、急に足がふらふらになり座り込みました。
 「どこまで行くとね』
 と尋ねられて、
「時津の家に帰るところだ」
 と言うと、
 「ほう、そりゃ危なかばい、横穴のあるところまで行かんとね」
 と優しい小母さんの声でした。

 その時、晴れ渡った青空に飛行機の爆音が聞こえました。この場に二人は死んだように伏せて、飛行機の去るのを待ちました。多分十時か十一時頃だったでしょうか。爆音が去ると、小母さんは自分の体を見せるような仕種をしながら、
 「見てみんね、こぎゃんやられて憎らしかね、仇(かたき)は取ってくれんねよ」
 と言って立ち上がりました。私が大きく頷(うなづ)くと、
 「皆が心配して待っとるばい、早う帰って安心させてやらんね」
 と言いました。

 私は黒焦げに半壊した鎮西中学校のビルや稲佐山から城山方面の山々がすっかり焼けつくして、長崎がこんなに広かったのかと初めて赤茶けた砂漠のような町を見て、人々は皆死んでしまったのではないか、と思いました。

 長崎刑務所の前の石垣が下がえぐられて、上に吹き飛んだようになっているのがふしぎな光景に見えました。
 至るところに黒焦げになって死んでいる人がいましたが、働いているものは殆ど見当たらなかったのです。こんな光景の中で、ふしぎに「自分は生き残ったから、この様子を皆に話したい、生きて帰りたい」と激しい衝動が湧くものであることを知りました。

 大橋の欄干に真っ赤に焼けただれた男の人が、瞳を半開きのまま全裸で座ったまま死んでいるように見えました。大橋の鉄橋にかなりの人が集まっていました。
 橋の下や川の中にも人が動いていました。私ははじめて生きて帰れるかも知れないと思いました。よく見ると憲兵が怪我をしている人を列車に乗せている所でした。 私は憲兵に
 「汽車はすぐに出るのですか?」
 と聞くと、
 「怪我していないのなら歩け、汽車は当分出ないぞ」
 と言いました。私は線路の上を走るように、道ノ尾の方へ急ぎました。その頃から人の往来がかなり見受けられるようになりました。線路の土手は夏草が見えはじめ、六地蔵の辺りは青い夏の田んぼが広がっていました。

 漸(ようや)く時津の入口、内坂の堀切にさしかかった時でした。家に疎開して靴屋を営んでいた浜崎の若主人が、私の前で棒立ちになってしばらく呆然(ぼうぜん)としていました。
 「勝信さんじゃないかね」
 「はい」
 「みんな心配しとらすよ、早う行って安心させんね」
 私はつぶさに、
 「おじさん、浦上から全廃ばい、おじさんちもなんもなか、おばさんたちもどこへ言ったか、探しようがなかばい」
 と言って別れました。

 私は渾身(こんしん)の力をふりしぼって、坂を転げるように走りました。継石まで来ると、青々と広がる田んぼの中に我が家が見えたとき、母にとびついて泣くかも知れないと思いました。家の前の道路には、母や長女の姉や素懐の木原さんたちがみんな手をあげて待っていました。

 「お母さん、帰ってきたよ」
 と言うと、母は声を出して泣きながら私を抱きました。母が私を抱いたのは後にも先にも人生の中で、唯一度だったと思います。姉も木原さんも声をあげ泣いてくれました。

 私は真先に流し台に行って水を飲みました。すると、南向きの流し台の前のガラスがみんな割れていました。二階のガラス戸も南側は爆風で吹き飛び、その後キノコ雲が出たことを初めて聞かされました。
 何よりもびっくりしたことは、茂里町の三菱兵器で働いていた姉が、全く無傷で家に帰っていたことでした。姉は工場の傍らで水を被(かぶ)り、工場をすぐ逃げ出して、近くの山を伝って、山越えで夜中に帰ってきたのだそうです。

 疎開の人の浜崎靴屋の主人は、家族の行方を捜すことができず、その日の夜遅く憔悴(しょうすい=つかれ)きって帰ってきました。
 後で聞いた話ですが、お嬢さんが、半身黒焦げに火傷して帰ってきたが、話すこともできず、気が狂ったように苦しがっていたと。そして数時間後、急にとびおき、ずきんを被って外へ飛び出すと、側溝に身を丸めると「怖い、怖い」と叫びながら死んだということです。

 城山町に住んでいた従兄弟が十一日の午後、無傷で、元気にひょっこりやってい(来?)ました。長崎西校(旧瓊浦)グランドで被爆して吹き飛ばされたが、怪我はなかったそうです。

彼は、叔母、母のことを、自宅で顔や手足を火傷し、家は全壊、父は三菱長崎製鋼所で即死、次女は城山中学校で教鞭(じゅぎょう)中即死したこと、弟達が近所の人と川辺のテントにいること、その他、そのケロイドの母が今朝長崎市民病院に入院したこと等を話しました。
 それから私は兄と二人で、その全焼した叔母の家を片付けたり、バラックを建てるため、リヤカーを引いて何回となく城山の焦土へ行きました。

 それから、その従兄弟は私の家に居て、米を搗(つ)いたり、草をとったりして手伝っていたのですが、二週間もしない頃から元気がなくなり、腕などに小豆(あずき)大の赤黒い斑点が出て、頭髪が気味悪くボソっとぬけました。

 九月二日のことでした。ミズリー号上で終戦調印式が行われる日のことでした。食事もしなくなって、急に
 「お母さんに会いたい」
 と言いながら、長崎の市民病院に歩いて出かけました。これも後で聞いた話ですが、青ざめて母の病室に入るなり、
「お母さん」
と言って叔母に抱きついたそうです。叔母が
 「苦しいね」
 と尋(たず)ねると、
 「苦しい」
 と答えたまま、息がきれたということでした。




  1. 2005/05/27(金) 20:46:05|
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ぜひ伝えておきたいこと

ぜひ伝えておきたいこと                  

                   

                勝野タカ(当時三十六才・主婦)

 長崎市東小島町、大通りに沿って建てられた石崖の上の家は、爆風を真正面から受ける状態、私は半ば裸体で休息していた。突然、遠くに強い光を感じ、ゴーッという音におどろき、奥の部屋に逃げた。

 母(六十八才)兄嫁(三十六才)私(三十六才)長女(五才)次女(二才)五人は、身を寄せ合って何か落ちて来る事を感じ夢中だった。数秒して静かになって、あたりを見るとガラスの粉ばかり、けがは長女が少し破片で血の出るくらいだった。縁側は弓なりに曲がり、天井板、瓦が所々はげていた。

 家の主である私の次兄(四十三才)は三菱兵器工場に勤務していたので毎日が不安であったが、義姉や親戚(しんせき)の者が手分けして毎日さがしたが、爆心地にいたので遺体も見つからず、悲惨な人々を見て帰ってきた。私は出産前で歩き回ることもできず、兄嫁は悲しむ一方に、私たちの世話は誠に気の毒な毎日だった。
 
 私は九月出産予定だったので、三月末、東京大空襲を目前に見て、故郷の実家に相談する時間もなく、頼っていったのだった。(夫は久留米(くるめ)にて勤務)食糧難の最中に申し訳ないことであった。

 九月二十八日女児出産、その隣の室には老いた母が被爆以来、心臓と悪性の腸でねこんでいた。十月十九日死亡。

 昭和二十二年九月、ようやく東京で勤務の夫と家族一緒に住むことになったが、四畳半に五人の生活、次女の呼吸器病、七年間の養生(ようじょう)、三年遅れて小学校へ入学、三女も甲状腺(こうじょうせん)手術、結婚はしたが、私には一人も孫が出来ない。長女は難産で死亡、夫は昭和五十一年二月に死亡。

 現在私は八十五才、娘(次女五十一才)と娘婿(五十一才)の三人暮らしである。私はこの二人に守られて感謝の毎日を過ごしている。

 戦後の長年月を思えば、困難もずい分あったが、のり越えられてきたのは、国民全体の努力の賜物(たまもの)と感謝している。
 世界のあちらこちらで今も戦争がたえないが、日本は原爆の悲惨をなめた唯一の国だが、今後絶対に使用しない事、絶対に廃止する事を世界に宣言していただきたい。
 私は骨粗鬆症(こつそしょうしょう)で歩行困難でほとんど外出しないが、皆様のおかげで何かの用になっていると自信をもっている。




  1. 2005/05/27(金) 20:41:27|
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被爆者として訴えたいこと

被爆者として訴えたいこと

                              加藤美代子
(当時 長崎私立高女子生)

あの時の光景や出来事(できごと)

 昭和二十年八月九日、私は長崎市浦上の爆心地から北へ七・五キロの西彼杵郡時津町に住んでいた。当時市立高女の聖徒だった私は、学徒動員の仕事を休み、母が着る「お盆」のためのワンピースを縫っていた。自宅は前方に山一つへだてて浦上の町に対じしていた。

 空気がよどみ、風のない暑いその日十一時前、突然、役場のサイレンが警戒警報を発令、やがてそれは空襲警報へと変わった。この頃は時津上空を通って大村航空隊へのアメリカ機飛来が多くなっていたので、すぐ心の中で避難体制ができていた。
 しかし、警報のみで爆音はなく間もなく空襲警報解除のサイレン、家には私のみで父母は裏手の丘にある畑仕事に出かけ、弟は小学校へ行っていた。
 別棟の一部屋を貸している鹿児島出身の二反田さんは兵器工場に、奥さんは0才の赤ちゃんを寝かせつけて、長女(三才)を連れ、米の配給を受けに町まで出かけていた。

 突然ピカッと強烈な光が走った。今まで体験したことのない閃光に一瞬ぼう然とし、しかし私の脳裏(のうり=頭の中)に「敵機来襲」の予感がひらめいて身を守らなければ、という思いがつきあげてきた。とっさに仕事をほおり出し、座敷にとびこんで布団をかぶった。
 その時、また二度の閃光が走った。と同時に、「ドーン」というものすごい大音響、私は何がおこったのかわからずしてしばらくはそのまま、じっと座り込んでいた。

 生きているのか死んで入るのか、やがて私の頭に次の考えが浮んだ。「生きているなら体をつねってみればいい。痛かったら生きているんだ」と。私は右指で左のふとももをつねってみた。「痛い!」私は生きている、こわごわと布団をもちあげ部屋をみた。
八畳敷の畳(たたみ)はもち上がり、縁側の雨戸は破損していた。そして今まで針仕事をしていた部屋のガラス障子は粉々に飛び散り、まわり一面に散乱していた。私の思考が少し遅れていたら、私の顔には今頃無数のガラスの破片がくいこんでいたに違いない。
私はハダシで土間にとびおり、赤ちゃんの部屋に走った。ヨロイ戸だけのこの部屋は、赤ん坊に何の傷も与えていなかった。私は赤ちゃんを抱き上げ家の後方、竹林に掘った防空壕へ急いだ。

 人の声がする、それは林をへだてた家の池田さんの母娘であった。口々に安否を確かめあいながら、この突然の出来事が何なのか話し合った。ここは森の中で変化は何も解らない。
その中に母が降りてきた。二人は青い顔で、閃光と音に驚き、いも畑の中にうち伏したという。その時、黒い雨が降ってきたといった。
父母と娘は揃ったが、弟と二反田さんとその長女の安否が解らない。とりあえず、家に戻ることとなった。その時初めて前方の山の上空、則(すなわ)ち長崎浦上に大異変がおきていることが解った。
数十分前まで太陽に照らされ、明るかった上空は炎の色に染まり、空は暗くなっていた。長崎方面が大変なことになっていた。
 
 家の下の道に人影がした。市村さん(六十代の男性)であった。
 「長崎方面から全身ヤケドでボロボロの服を着た人が大勢歩いて来ている」
 と大声で私達に怒鳴(どな)った。長崎、浦上と時津は一本の大きな県道でつながっているのだ。やがて二反田さんの奥さんが長女をつれて、これもまた青い顔で帰ってきた。 弟達は閃光が走った時、教室の机の下に全員もぐったという。
 私達は兵器工場に出勤している二反田さんの帰りを待った。無事だったらいいのだがと。その人は一晩帰らなかった。やがてあくる日、顔はどす黒く工員服はボロボロの二反田さんが帰ってきた。
私達は大喜びで迎え、無事を喜びあった。彼は爆撃の後、体の損傷もなく、稲佐山を徒歩(とほ)で歩き、時津の待ちに帰り着いたという。その山(長崎市西側の山)には無数のケガ人がひしめき、地獄の様相だったという。
 彼は外見上無傷であった。当人自身の無事を喜び、やがて勤務先の倒壊のため職をなくし、鹿児島に帰郷された。なのにその一ヶ月後、訃報(ふほう)が届いた。原因不明の出血、毛髪の抜け、体力消耗により死去と、今思えば原爆による白血病死である。

 前に書いた池田さんの長男の妻は結核だったため、浦上にある長崎医大付属病院に入院し、折り悪(あ)しく(今にして思えば)九日が退院の日であった。夫の春樹さんはリヤカーを引いて朝早く奥さんを迎えに出発していた。そして原爆投下にあった。

父は翌日から池田さんに請(こ)われて、近所の人々と浦上に向かった。一両日煙のくすぶっている街々、「穴コウボウ」(医大病院の東側の山)の付近をくまなく探してまわった。
 そこにはおびただしい人々の死体、爆風にふきとばされた格好(かっこう)のまま、あるいは家の下敷きで息たえていたという。もちろん、犬や猫、馬も牛も。池田さん夫婦は大橋の上で発見され、戸板に乗せられて無言の帰宅をした。

 それから三日たった十二日、私は母や近所の人々に連れられて浜田郷にある「万行寺」に、被爆した人々の介護に向かった。本堂の広い板の間には、緊急に集められた布団の上に、傷ついて長崎から逃げられて来た人々が横たえられ、これも徴用された長崎医専の学生達が白衣を着て介護に当たっていた。
異常な雰囲気の中、悲鳴やウメキ声があふれ、臭気がただよい、患者の傷の中からウジがわき出ていた。今の人はこれを聞いても信じられないことであろう。しかしこれは現実のことだったのである。

 私の小学校の時のクラス・メイト岩田さんも被爆してこの寺に収容されていた。その美しかった顔は、ガラスの破片がくいこみ、その取り出し手術(でも)、無惨な顔に変わっていた。彼女は被爆して十代のまま人生を終えた。

 寺には朝鮮の人も収容されており、「アイゴ、アイゴ」の泣き声は終日本堂に響いた。今その人達はどうしておられるであろうか。現存しておられるだろうか。八月九日がおとずれるたび、この情況を思い出し、六十五才になった今でも涙があふれてくる。

昨年(平成五=1993年五月)小学校の同窓会があり、出席できなかった私に名簿が送られてきた。男子組七十五名、女子組八十名、その中で原爆による死亡者は合わせて三十三名で、十六才になるか、ならないかの短い人生であった。
 名前の上に符(ふ)せられた物故(ぶっこ)を表す黒丸が、その人の幼な顔とだぶって痛々しかった。
 混乱の中できいたうわさ話では、投下された爆弾の名は「新型爆弾」で広島に落とされたものと同一であり、当時から七年間は草も生えない恐ろしい毒の爆弾と聞いた。そして日は過ぎやがて十五日の玉音放送となるのである。

被爆後の病気や生活の苦しみ

 終戦の翌年、教師の道をめざし、長崎青年師範学校へ進学した。(現長崎大学)そして卒業と同時に昭和二十四年四月から三十二年まで西彼杵郡の三つの公立中学校で家庭科、国語科、音楽科を担当した。
 当時は所得免状以外に素養のある教科を受け持つことが常であった。若かったせいもあり、また、被爆者の看護をしたため、第二次放射能汚染も受けたということを知らされないまま歳月は流れていった。

 そして昭和三十年、日本女子大学に編入学卒業後家庭に入った。二人の男児を育てながら高校の講師を十一年間勤め、専任試験を受けてパス、昭和四十九年から都立高校の教諭となった。同年十月、職業と家庭の両立で過労ぎみとなり、体もだるく、血圧も上がってきた。
また時折胃も苦しい、更年期前期でもあり、漢方薬局で薬を処方してもらい毎日服用していた。しばらく後に右乳の脇が痛むようになった。胃の変調も気になる。私は思いきって池袋の癌研の内科を受診した。
 内科では単なる胃炎と診断、ただ外科の外来では受診者多数のため、長時間待つこととなった。あまりの長さに私は、カルテを取り下げる旨(むね)を申し出た。

 その時、受付の女性が、
「今まで待ったのだから、少し辛抱したら」
 と言って下さった。私は思い直して順番を待った。今にして思えば、この女性の一言が私の生命に関与することになったのである。

 診察の担当医は外科部長の久能先生であった。何ということであろうか、先生は痛い方の右乳ではなく、左乳の上部に持っていた黒いマジックでチョンとX印をつけ、
 「ちょっとおかしい所があるのでレントゲンをとりましょう」と言った。そして二度のレントゲン、組織検査とすすみ、乳癌がみつかったのである。
 その時の私の動転は今でも鮮明である。長男は翌春高校受験、二男はまだ中学一年生、私の人生は二人の子と夫を残してこれで終わるのか、と暗たんたる思いであった。

 十二月二十七日執刀、以降三ヶ月毎の検診を受け、その結果におびえながらの十九年であった。幸い早期であったため、左乳はなくしたが今のところ順調である。
 しかし手術後ケロイドとなり、左胸の傷みは消えない。昭和五十五年には子宮筋腫、六十二年には帯状包診、六十三年肝臓障害と続き、心身共に難問を迫られている。
 唯感謝しなければならないことは、
 「もう少し辛抱して待ってみたら」
の受付の女性の一言である。私にとって、それは今まで生きて来ることができた命の恩人の声である。あのまま帰って放置していたら、今の私は存在していないかもしれない。後年、その女性にお礼を申し出たが受け入れてもらえなかった。本当に私にとって神のごとき存在であった。

 数々の「痛い」の連続であった。「健康な身体に健全な心は宿る」といわれる、まことに至言である。体力がなく、病気への快復力が弱い私は、また心も強固ではない。もし二次的とはいえ、被爆の全くない身体だったら、私の左乳はどうだったか、その後の免疫力はどうであったか疑問は尽きないのである。

 ある時三十二才の次男が言った。
 「僕は被爆二世だからな」
 彼は私から生まれた故に、この思いをもって生きていくのだろうか。そしてもしそのような病気になったら、思いがけない自分の運命と私を恨(うら)むのだろうか。
 原爆を生み出した科学者とそれを投下した国によって幾多の人々とその子孫まで類をおよぼすこの結果は一体何であろう。原爆記念日を迎えるたび、この私の憤激(ふんげき)は天をつく。
 
 昭和五十二年五月、原爆投下の日「いも畑」の中に打ち伏した母は肺ガンのため八十二才で他界した。いとこの綾さんは乳癌から生還したが、その妹は同じ病気で他界した。幼い子を残して。

今、被爆者として訴えたいこと

 私自身の中には被爆者としての自分が信じがたい。だからあれから二十九年たって乳癌になった時初めて郷里の弟から、時津町在住者(当時)に被爆者手帳が公布されている事を知らされた。弟は電話で言った。
 「姉さんが病気になるんだったら早く手帳のことを教えればよかった」と。
 弟はそのようなことのあった少女時代の私の出来事を義兄に知らせたくなかったのだ。何と言う広島、長崎の原爆に会った人々の不幸、それが次世代にも続く不幸であるだけに。(何故に被爆者である事にうしろめたさを感じなければならないのか、自分の責任でないものを)

 日本はもっと全地球人類の為に、生きとし生きるものの為に原爆の恐怖を訴え続けなければならない。唯一その悲惨さと恐ろしさを体験的に知らせられる国だから。それなのに、政府はおとなしいのか、何故ちゅうちょするのか解らない。

 「見るは百聞にしかず」願うべき核保有国、核開発途上国の首脳を広島・長崎に招き、当時の惨状と現存する人々のつきない心身の苦しみの実態を知らせたい。
 また、世界の人々にその事を具体的に啓蒙し核の悲惨さを浸透させねばならない。その事が被爆国日本の使命だと思っている。




  1. 2005/05/27(金) 20:34:31|
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あの戦争さえなかったら

あの戦争さえなかったら

    林田ヒズカ
                  (当時二十七才 主婦)

 わたしは長崎市五番町で被爆しました。身内では、あの時は元気なように見えましたが、二~三年後に主人の兄夫婦が他界しました。

 あの日から五十一年にもなるのに、未だ体調が悪い。毎月、慈恵医大に診察あるいはCTに、超音波、と繰り返しています。この年になり、苦しんで、苦しんでいます。
昨年暮にも入院しました。他人様には想像もつかない病気ばかり。あの日がなかったら、まだ健康でいられたはずと悲しいおもいがします。
 今、病状は狭心症と肝硬変がありますと言い渡されました。この二つの大きな手術をしているので納得はしていますが、あの戦争さえなかったら、まだ元気だったろうと、くやしさで涙も出ません。

 どんなことがあっても、原爆だけは、のちの世の子どもたちのためにも、決してやってはならない。どうか命ある限り、どんなに苦しくてもがんばっていこうではありませんか。乱筆にて、目もよく見えなくて上手に書くことができません。




  1. 2005/05/27(金) 08:16:18|
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