「未来への伝言」核兵器のない世界を・・・
~町田市原爆被害者の会(町友会)編 「未来への伝言」被爆の証言を伝え、核兵器のない世界を~

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長崎で被爆した人たちはいま

塚本忠昭

(当時二才)

 私が被爆したのは長崎市勝山町の勝山国民学校のそばと聞いております。
 現在は自分が被爆したため、不具合は発生しておりませんし、両親もとくに大きな問題は出ておりません。一番心配した子供への影響もなさそうなので安心しています。

 被爆に関しては時に思い出すことがあるだけで、五十年すぎたので、これからは影響が出ても仕方がないとあきらめることができますが、子供が生まれたときが一番心配でした。今後孫への影響を心配しなければならない年になりました。


久永秀夫

(当時三十一才 海軍航空廠軍属)

 B二九が上空にみえ、ピカッと光り、すごい音がしたあと、長崎方面にきのこ雲が上がった。パラシュートで何か落ちるのをみた。長崎に新型原爆弾が落とされたので防空壕に入れ、との事だった。海軍航空廠は爆心地から三十キロ以上もはなれてるのに窓がふきとばされた。

 長崎より大村の方が陸海軍施設が多かったが、すでに空襲で破壊されていたので長崎に投下されたのではないかと思っている。
 翌八月十日朝十時、トラックで長崎の三菱重工付近まで救援に出動する。

 道にも着いたところにも黒こげの人がいっぱいで、手をさしのべ、「水、水」と私に求めてきたが「水をあげると死ぬ」と止められた。男女の区別もつかぬほど焼かれ、トラックにひきあげようとすると、ズボっと骨まで指が入り、どろどろでひきあげられない、すさまじい状態だった。
諫早(いさはや)付近で息のある人は赤十字のマークのある天幕張り救護所に、死んだ人は別のところに降ろし、当日更にトラックで一往復した。 翌朝十一日第三回めの救援のトラックに、こんどは自分が気分が悪くて乗る事ができず、海軍病院に入院、治療をうけることになった。

 残務処理のため航空廠が解散となったのは終戦後一ヵ月半位あとで、大村の自宅に帰る昭和二十三年、長崎市淵町で被爆して大村に帰っていたIと結婚、二十四年長男出産、長崎市に移り自営業を営む。昭和二十七年次男が生まれるとABCCから生まれた子の調査に来る。
母親がついて行こうとすると、有無(うむ)をいわさず子どもだけジープでつれていき、何を調査したのか何の報告もなかった。自営業の頃、白血球が少なく、胃潰瘍(いかいよう)で胃に穴があき、一時、だめではないかと言われた。

 自分は小柄で、兵隊にとられる前に志願して海軍軍属となり、軍属をまとめる役になるまでがんばった。スマトラの西端サバン島では四十日間米の食事がなかったり、艦砲射撃(かんぽうしゃげき)で海に投げ出されたり、部隊二八四人中三一人しか生還しなかったり、九死に一生を得て被爆して、体はいつも弱かったが、ここまで(きて)原爆で死んでたまるかとがんばった。

 昭和三十四年上京、町田市旭町東京研究所につとめ、ついで三菱化成生命化学研究所で働き六十五才で退職、森野で生まれた長女は今でも出血しやすい。町田に来てからも胃潰瘍は続き、二度こんどはだめかといろいろあった。
会社勤務の頃は、仕事に、子どもの入学、就職、結婚にさわりがあるかと原爆の話はせず、被爆手帳も使わず、会社の健康保険で医療を受けてきた。

 昭和五十年頃、東友会のことを知り、電話をして運動に参加したいと願い、新聞「東友」に記事が出て隣家に本田祖さんがいられる事が分り、昭和六十年町友会再建に参加、脚骨折事故もあったが、リハビリにつとめ、現在は足指の「えそ」で歩行困難、痛みに苦しんでいる。血がうすいのが原因ではないかとの事。

 核廃絶。
救援で入市して想像を絶する原爆被害をみた。自分は白血球が少なく、妻も血がうすい、長女は今でも口内出血する。子、孫、ひ孫たちへの影響の心配は絶えない。広島、長崎の原爆被害、核戦争は二度と決して繰り返してはならない。


別宮安春 

(当時二十才 長崎浦上にて被爆)

 八月九日、諫早駅で黒い雨にあい、午後六時浦上地区に入り、重傷者収容に当りました。

 被爆後現在まで関節の痛みやしびれ、低血圧になやまされ、ボケもプラスして暖かくなるのをまっています。世界のどの国も原爆の保持、使用には絶対反対です。


尾上重男 

(当時十四才 学生)

 私は長崎市外長手町高田郷の雑木林で松ヤニ採集(爆心地から四キロ)中、凄(すさ)まじい風が一瞬山の斜面に吹きつける、耳鳴りはその時からである。

 救出されてくる人々は、毛布にくるまり、顔だけ出してリヤカーにのせられ、身動きできる人は少なかった。どの顔もどの顔も石炭の固まりのように、髪は焼かれ、顔から身にかけて、白いところはほとんどない。
 目は開けることもできない。目を少し開けられる人は閉じることもできないのである。
 顔のところどころ、ひっかいたのか、皮膚がむけ、たれ下っている人もいる。学徒動員で兵器工場へ行っていた十三才の女の子の顔も全く同じであった。この子は翌日亡くなった。冥福(めいふく)を祈る。

 被爆の時より耳鳴りが始まり、何ヶ所かの病院へ行ったこともあるが、治らないということである。そのためのハンデは大きかった。広い会場の場合、とくに聞き取れない。現在もそして今後も背負っていくと思う。六十才をすぎてから体力の衰えが酷(きび)しいのか、内科医の話では十年位年取ってくるような体であるとの診断である。その様なことなのか、色んな病気にかかりやすい。一年が二年の進みのように思われる。

 わたしのようなこの体験は、誰もが体験すべきではない。体験した私たちだけで充分である。この現実を為政者(いせいしゃ=政治家)は十二分に理解し対処されるべきである。過ぐる日と共に暗雲の彼方(かなた)へということは許されるべきではない。

 犠牲になられた方々は、生きている限りその時の傷を背負っていかねばならない。国は一日も早く救済の手をさしのべることこそ平和国家日本といえるのではないでしょうか。その日が一日も早く来ることを強く訴えたい。


南波忠男 

(当時十八才 川崎汽船船員)

八月十日長崎市城山町にて入市被爆。私は自宅待機中で、八月九日朝、伯父の家に別れを告げに行く為家を出、途中日見峠で防空壕に入り助かりました。
 翌日市内に入った時は、死体が数えきれないくらいに浦上川に浮いて流れて、男女の区別もつかない位に黒こげの死体、あの時の姿は今日も目に残っています。
 原爆だけでなく、戦争の犠牲になった人の事を思い出すと、二度と戦争のない世が続いてくれることを祈ります。幸いにも私は何とか生き延びて良き伴侶と子供たちに恵まれて生活しています。
 永遠の平和を祈念して。。。



久保田照吉

(当時十一才 小学生)

 私が長崎で十一才の時に経験したことをお話します。私は十一才だったのではっきりしたことはよく覚えていません。父、母、兄から聞いたこと、それが頭の中に残っております。長崎の夏はとくかく暑いんです。

 帽子をかぶっていても頭がじりじり暑い日でした。あの日の朝空襲がありまして、私は母につれられて約二百メートル離れた防空壕に非難しておったんですが、解除になりまして、やっとじめじめした防空壕の中から家に帰りました。昼前だったので少し外で遊ぼうと近くの山で弟と蝉(せみ)をとって遊んでいたんです。

 “おなかがすいたね”といって二人で家に帰りました。その時です、ピカッ--ときたのは。光ったのは、赤だったか黄色だったか、一瞬の光線で目がつぶれたようで何も見えなくなりました。母が
 「爆弾がおちたよ、早くふとん被(かぶ)んなさい」
 と言いました。しばらくしてからやっと目の前が少しずつわかるようになりました。自分の横にはタンスが倒れ、仏壇(ぶつだん)が倒れ、立っているものはみな倒れていました。

 あの原爆の光と熱、爆風、放射能が長崎をおそったんです。あの原爆の熱六〇〇〇度といわれています。鉄をとかすのが一六〇〇度といいますから四倍近くの熱です。人の体は真黒、炭と同じになります。

 爆心地の近くの人たちは黒焦げです。ぼくは幸いにしてお陰で難を逃れ、家にいた者も、三菱造船所にいた父も山のかげにいて家族六人無事でした。

 町内の方が、あの時はよく見ていないからよく分らなかったのでしょう、あっちにもおちた、こっちにもおちたみたいだ、と。まさかあの一発の大きな爆弾がおちたとは知りません。広島に新型爆弾がおちたという話はあったんですが、まさか長崎におちたとはわかりません。しばらく防空壕の中へ非難したあと家に帰りました。

 家の中はものすごいガラスの破片、食器の破片、窓ガラスは全部割れ、ドアも吹きとんでない。
 二階に上がると、畳(たたみ)がぐっと持ち上がったようになっている。前が石垣だったものですから、爆風がぶつかって家の方にはね返ってきたような形になっていました。建物も全部倒れるし、でも、弟がちょっと頭をけがしただけで何とかみんなぶじでした。

 夜になると、あちこちから怪我(けが)人が帰ってきました。着ているものはボロボロ、隣にいた佐藤さんという娘さんはぼくより五才上で、かわいくてきれいで、長い髪をしておられましたが、その方が見るも無惨(むざん)に、頭の毛はちぎれ、背中一面火傷で這(は)うようにして返ってきたのを見ました。
 なんとも言いようがなかったのですが、後で聞くと、やはり爆心地近くにいて被害にあったというのです。

 翌日になって父が山の上から長崎市内を見、長崎一面が火の海になっている、火事だ、うちは大丈夫だろうか、そんなことを心配しておりました。
 長崎市内でいったい何が起こったんだろう、大きなガスタンクがあったから、あれが爆発したのだろうか、そんな話をしていましたが、それが原爆だったのです。

 とにかくわが家は一家無事、その翌日から知人の安否をたずね、怪我人収容のため父は現地に行きました。
 一人でも多くの人を助けたい、自分の友人、知人が元気か無事か、それを願って手伝いに言った訳なんですが、そのため、当時は放射能をいっぱい吸ったなどわからなかったのですが、そのためその後父は寝たり起きたりの生活の中、十三年後に白血病で血液循環が悪くなって死にました。

 そういうことがあって、わたしたち家族は、終戦後食べるものもなく、米兵がやってくる、米兵がどんなことをするかわからない、殺されるかも分らない、早く逃げた方がよいというので、一家着のみ着のままで島原の方へ逃げたんですが、途中お弁当といいましても、おにぎり、ご飯が少し、お芋が少し入ったもので、水を少し持ち、夜逃げ同然、汽車で行けば一時間足らずのところ、それをとことこと、命ほしいために逃げました。

 道すがらたくさんの人が同じように歩いております。怪我人でしょう、大八車にのせてごろごろ歩いている人、“もう歩けないよ”そういう子どもたちもつれて。
 真っ黒なところで青白い光が見えます。“父ちゃん、あれは何?”“あれはな、身内の死んだ人を焼いているんだよ”と教えてくれました。

 そういう光景を見ながらやっと諫早(いさはや)という駅に着いたんです。駅に着くと人の山です。みんな同じように長崎から逃げてきた人でした。
 横の方を見るとまるで死体のようです。たくさんの人が、まるで丸太を重ねたみたいに横たわっていました。どの位か、やっと切符がとれて汽車にのることができました。
 
 その中でまた悲しい事がありました。わたしたちの乗った列車は満員、デッキにやっと入ったんですが、若いお母さんが三つか四つの子を抱いて乗っていました。

 顔を見ると一面包帯、顔から胸にかけての火傷が痛々しい、“ヒロシくん、もう少ししたらおばあちゃんの家につくからね”、今でもヒロシ君という名前が思い出されます。子どもに繰り返し呼びかけていました。
 私も長く歩いたので疲れてウトウトしていたのですが、そのヒロシ君のお母さんが突然、大きな声を出しました。“ヒロシ、ヒロシ” その声で目が覚めました。その時が、そのこの最後だったんです。

 もう少しでおばあちゃんの家に行ける。もう少しだったんですが、幼い命はもたなかったのです。お母さんの腕の中で亡くなりました。
 うちの母も周りの人もかける言葉もなく、ただ合掌(がっしょう)、泣いておりました。暑い夏がやってくると、どうしてもこの列車の中の出来事が思い出されます。

それで島原へやっと逃げて行ったんですけど、約一ヶ月は疎開(そかい)先でどうにかせいかつしたんですけど、やっと長崎の方に父たちがいったん帰りまして、別に異常がないようだから帰って来い、ということで、長崎へ戻ることができました。でも、うちは窓もなにもなくて、ただ板をくっつけただけのあばら屋になっていました。

 それで私は昭和三十三年に東京に出て現在に至っております。二十六才で結婚しましたが、結婚するまでは自分の体のこと、放射能のことがやはり心配で、もし自分の子どもが生まれてきたら不具者が生まれるんじゃないかと、いろんな人から聞いて心配でした。でもおかげさまで丈夫な子を授けていただきました。

 現在町田には約三〇〇人の被爆者がおります。そういう方々も私のような心配をしておられると思います。そして被爆者はこの忌(い)まわしい、本当にむごたらしい話をしたくなかったんです。
 みんな忘れたいんです。でもそれができないんで、やはり皆さんに訴えて、みんなが平和な生活ができるように一日も早く全世界から核兵器を廃絶したい、そういう願いをこめて、私たちは皆さんの前で話すようになりました。

 今、世界には、広島、長崎に落とした原子爆弾の何十倍もの威力(いりょく)をもつ核兵器が五万発もあるといわれています。いざ戦争となれば使われるでしょう。
 もう二度とあってはいけないのです。かわいい子どもたちが一瞬のうちに死んでしまいます。そのためにも皆さんと協力して全世界から核兵器をなくしていきたいと思います。

 どうか私たちのこの運動にご協力いただきたいと思います。暗い話で申しわけございませんでしたが、これで終わらせていただきます。ありがとうございました。

(1989年公民館主催の平和のための市民講座、報告書より)



「未来への伝言」をまとめて   ----今改めてその重みをかみしめています----

わたしたち(町友会)が「未来への伝言」としてみなさんの体験をよせて下さい、と町田市内に住む広島、長崎の被爆者の方々によびかけてから四年が経過致しました。
 
 市内には、四〇〇人をこえる被爆者の方がおられるはずなのに(町友会と連絡のとれている方々は二八〇余)、なかなかいい返事はありません。
 あの日からすでに半世紀も経ち、お互いに年を重ね、記憶もすっかり薄れてしまった、いや、あの苦しい、残虐な悲しい思いは忘れようとて忘れることはできないものですが、体験者はそれぞれ、深い重い人生を歩いてこられたハズであります。

 ”ああ、あの方はついに証言を残さずに逝(い)ってしまわれた”とくやしい訃報(ふほう)が次々と伝えられます。

 せっかく証言をして下さったのに、完成本をお見せすることができなく亡くなられた方もおられます。

 核兵器は決して許すことのできない、残虐な兵器である。ことばの上では人間である限り承知しているわけですが、一日も早くこの地球上から核兵器をなくし、豊かで平和な地球を、との行動にはかんたんにつながらないのが現実です。

 だからこそ、わたしたち被爆者が自らの体験を証言していかねばならない責任がここにある、と思うのです。

 今ここに四十七人の証言をまとめ終え、改めてその重みをかみしめているのですが、証言して下さい、と呼びかけても、そう簡単には返ってこない意味あいがよくわかります。
 証言をすることがいかに辛いことなのか、苦しいことなのか、なぜ身近な家族にさえ語ってこなかったのか、発表して下さるなら匿名(とくめい)にしてほしい、仮名にして下さい、とのおきもちが痛いほどよくわかるのです。

 思い出したくない体験を、視力もおぼつかないのに必死でつづって下さった方、戦火に焼かれて死んでいった身内をみとった証言など、まとめながら涙をおさえることはできませんでした。

 現在、世界には五つの核保有国をはじめ、いくつかの国の、とくに政治的指導者の中には、核兵器の残虐性、反人類性が理解できず、「核兵器は国際法違反」との認識に立てず、「核抑止力」だの「核兵器の究極的廃絶」などといういつわりがまかりとおっています。

 生き残っている被爆者は生命のある限り、自らの体験を語り、訴えつづけます。


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  1. 2005/05/27(金) 21:04:34|
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広島で被爆した人たちはいま

広島で被爆した人たちはいま
               柴田俊郎

(当時十九才 広島工専学生)

 私は当時広島工専の学生で千田町の校舎で授業中であった。空襲警報解除で授業が再開された。教室で閃光と同時に吹きとばされ、瞬間真っ暗になり、手さぐりで外に出ると、市の中心部は火の手が上がっていた。

背中の一部を火傷、負傷で似島に行き一晩泊る。ここで顔・手・足の皮がたれ下がり、赤むけの肌を出した人、火傷により水を欲しがっている人の声、皮膚のやけただれた臭気、痛みを訴える声を聞き、地獄におちた気分であった。

 爆心地より三・二kmの地にて被爆し、第二次程度の火傷ですみました。黒い雨にもあわず、無事に過ごしております。

 原爆の生き残りの一人として、原爆の被害が大きく、核兵器の恐ろしさを知ると共に、被爆後四九年、未だに原爆の後遺症で苦しんでおられる多くの被爆者の全快を祈ると共に、核兵器が地球上より早くなくなる様、二度とこのような事が起こらない様願っています。


 柳田操 

(当時二十二才 陸軍船舶兵見習士官)

 その当時私は、二十二才の陸軍船舶兵見習士官で、広島宇品の陸軍船舶司令部間にある、船舶練習部で船舶操縦の士官教育を受けていた。
この船舶司令部の施設は、紡績工場を接収したもので、我々が教育を受けていた場所は元女工さんの宿舎であった、木造二階建て大部屋和室の畳をあげて、板張りの床にした所に、机椅子を持ちこんで教室にしたものであった。

 八月六日は常のように八時には、数十名の見習士官が二階の教室に集まっていた。教室は南側(海側)に窓があり、北側(街側)は廊下になっていた。
八時過ぎ教官が見え、授業が始まった途端、南側の窓から見える隣の屋根瓦に、真白な光の玉がピカッと強烈な勢いで光った。

 一瞬何が何だか分からずに、立ち上がった途端に爆風のようなものが襲い、机、椅子が動き、文具が飛び散り、怪我人が出たが、我々の教室は幸い、暑さ凌ぎに窓建具を全部外して、部屋の隅に立て掛けてあった為に、怪我人は出なかった。隣に見える屋根瓦が所々ずれ散っていた。
北側の廊下に出て、街(広島市)の中心部の方を見たら、灰色の入道雲が立ち上がり、盛んにもくもくと動いていた。

 午後になり、部隊内の週番士官により、「文官教官の家族が広島市内に居るが、安否が不明なので探索に行ってほしい」との依頼があった。
場所は白島町で、そこは宇品から見ると、中心部を通って対角線上の真北にあった。私を含めて三人の見習士官がこれに応じて探索に出かけることになった。

部隊の営門を出たのが夕方であった。市内電車の通る大通りを市内中心部に向かった。宇品町の辺りは家が傾く程度であったが、市内に近づき、御幸橋を渡る頃には、電車通りが電柱や市電の鉄柱と架線が横倒しになった上に、破壊された器物が散乱し、市電の焼け残った残骸があり、馬の黒こげの死体が転がっていて、前に進むのに難渋した。

 辺り一面に見渡す限り、建物がペシャンコになり、瓦が地面一杯にしき並べたようになり、その下から真っ赤な炎がメラメラと立ち上がっていた。
白と黒の煙が渦巻き、異様な臭いが漂い、人の気配のない、何とも不気味な景観であった。動ける人は昼間の間に避難したと思われた。時間はもう真夜中であった。
初めて出た市内で何処が何処だかわからないまま北へ北へと進んだところ、広島城のお堀に突き当たったために右廻りに進み、城の北側にある白島町についた。真夜中の二時頃だったと思った。

ここが家が半壊している程度で、無事な教官の家族を探し当て、帰路は広島駅に出て、宇品鉄道の線路づたいに、宇品の船舶司令部に七日の明け方戻った。

その時にはもう司令部内には「原子爆弾だ」というアメリカ側の放送を傍受していた。その日から船舶司令部は臨時の野戦病院となり、数百人の被爆市民を収容し、我々は数日間看護に当り、被爆者の悲惨な情況をつぶさに体験した。

罪のない一般市民をこんな生き地獄にまきこむ、原子爆弾の使用は絶対に許されるものではない。

 わたしは戦後、幸いにも病気による苦しみに合うことなく過ごしてきた。わたしは、戦後制定された、戦争を放棄した日本国憲法をあくまでも守りたい、原子爆弾、核兵器の製造、そして使用は許してはならない。


猪原正廣
 
(当時二十七才 暁第一六七一〇部隊)

 八月六日原爆投下時は、広島市皆実町の船舶通信隊に居ました。前夜の演習のため中隊全員朝礼なしでそれぞれの部屋で就寝中でした。
 原爆投下時は、明治に建てた旧兵舎の二階北側の個室に寝ていて、南方の部隊本部方向が爆発地点で約二・八粁(キロ)、建物は屋根瓦が悲惨飛散、土居葺の赤土が真っ黒になり落下し、鼻の穴が土埃で苦しく、二階の個室から北側の庭へ飛び降り、早速防火用水に着服のままとびこみ、塵芥を落としました。

そして一階で壊れた建物の下敷きになった兵隊の救出、毎日死亡した兵隊や民間人の火葬に従ったのでした。比治山の下に仮兵舎を建て、残務整理の終わった十一月頃復員しました。

 被爆当時は外傷はなく、頭髪や眉毛が毎日ボロボロとぬけてきましたが、復員後三年目に鹿島建設に入社して設計の仕事をしていました。
朝は血圧が下がり、寒くて酒を飲んで何とか仕事をしていましたが、昭和二十六年日赤にて検診を受け、白血球が二万~三万単位に増加、赤血球が四百~三百単位に降下していることが判ったが、薬も判らず、毎日酒を飲んで元気を取り戻す様に医者(塩崎診療所)にすすめられ、酒で血を洗った次第です。

 被爆者として訴えたいこと、二度と戦争のない国家及び国民の存在を世界にアピールすべきであること。国同士の争いはすべて外交で処理すべきであり、軍隊を動員することは人民の不名誉であり、断じて避けるべきである。


山口幸七 

(当時二十五才 陸軍船舶幹部候補生隊通信中隊区隊長)

 原爆投下時は香川県豊浜町にいたが、軍命令で、八月七日夕方、船舶司令部の桟橋に上陸した。
宇品港周辺や司令部には被害はほとんどなかったが、電車通を皆実町に近付くに従い、民家の屋根、壁などに被害が目立ち始め、暁一六七一〇部隊につくと、兵舎は人が住めないほどに倒壊していた。
 部隊副官は比治山の中腹に掘った洞窟に居を移し、指揮をとっておられた。翌日は連隊内で幾人かの幹部と業務打ち合わせを行い、九日頃から同部隊の救援活動に同行して作業に協力した。

同時に市内の被害状況を視察して回った。作業内容は主に死体の捜索、収容と燃える材料を拾い集めての火葬であった。
 死者の名前をつきとめる余裕がなく、不明のまま荼毘(だび)にふしたことは、今もって申しわけない事をしたと思っている。

 戦後になって昭和三〇年頃に虫垂炎、胃潰瘍、十二指腸潰瘍を連続して患い、体力の低下を非常に感じた時があった。被爆の影響が出たのではないかと考えている。

 被爆者は癌にかかりやすいという統計結果は常に心の重荷である。

 平成二年四月、甲状腺の機能低下が発見され、医者漢詩の下に、現在もホルモン剤を飲み続けている。

 被爆者として訴えたいこと、町田市原爆被害者の会(町友会)に直接参加して、被爆者を守り、国家補償の援護法の改正に努力する。
 そして世界に向かって地球上の軍備から核をなくすこと、太平洋戦争に関係した各国の協力を得て、正しい歴史認識の評価を行なうことを心から訴えていきたい。


池田健三 

(当時六才)

 私は父が入院中の広島市双葉里町の吉田病院で被爆しました。廊下から庭へ爆風で吹き飛ばされ、気が付くと、病院の建物は倒壊、庭の大きな木は何本も倒れていました。
空は雲がもくもくと動いているようでした。幸い父は倒壊した家からはい出し、家の下敷きになった母を助けて病院の裏の二葉山を越えて逃げました。
 
 山の中腹から市内を見渡すと、一面火の海でした。途中、火傷を負った何人もの人に出会いました。

「水、水」と水を求める声が今でも耳に残っています。芸備線のある駅まで歩き、貨車に乗って疎開先の玖村までいきました。夕方薄暗い頃着きました。
 途中配給を受けたカンパンの味が忘れられません。

 被爆後今日まで幸いにも概ね健康で過ごしてきました。父が昭和二十八年、癌で亡くなりました。被爆後の市内へ何度も出かけており、何らかの影響をうけているのではないかと医者は言っておりました。

 原爆のことはなるべく考えないことにしておりますが、何か不調なことがあると、なんとなく原爆の影響ではないかと思ってしまいます。
 目下、白内障になっておりますが、右目は光線を受け、若干ヤケドの様になりましたので、この原因に被爆ありと思っています。

 今、被爆者として、とくに変わったことはありませんが、このまま、安定した生活が続けられればと思っています。


 教重美代子 

(当時十六才 市女生)

 わたしは当時、広島市段原末広町に住んでおりました。一瞬のうちに人生の変わった八月六日、私は学徒動員で日本製鋼所に、油のにじんだ戦闘帽、作業服を着て、旋盤(せんばん)機械で機関砲の弾を作っておりました。八月六日は工場の電休日で家におりましたので助かりました。

 最近聞いた話ですが、六日の休日は、建物疎開の後片付けに出るのは不当であると先生が交渉され、七日に動員することになっていたそうです。
 一日ずれていたら、私達は今こうしてこの世にいられないのだと思うと、ぞっとします。ほんとうに人の運命をつくづく感じます。

 自宅はほとんど破壊され、住むことができなくなりました。その日の夜は東雲町のぶどう棚の下で野宿をして翌日矢口の知人の宅へご厄介になりました。
 そこは、安田(女学校)の一年生の娘さんが亡くなられ、お葬式の準備の最中でした。全身包帯でまかれ、「ウミ」が滲み出ており、どんなにつらかったことか涙しました。十日に漸(ようや)く島根県の母の実家に辿りつきました。

 母は左足の「スネ」に家の「ネダ」がおちてざくろが口をあけたようになっていましたが、消毒だけの簡単な手当てをするのがやっとでした。痛みをこらえよくがまんをしたものだと思いました。

 九月に広島に戻って、横川から宇品まで見渡せたのにはびっくりしました。一発の原子爆弾で一瞬にして広島全市が壊滅してしまい、恐ろしいことだと思いました。また、この原爆で叔父は亡くなり、従弟は未だに行方不明のままです。

 核兵器は人類の破滅です。核兵器は絶対になくしましょう。

 被爆後二~三回、鼻血、下痢がありました。現在は高血圧、腰痛で悩んでおります。常に原爆症のことは頭にあります。わたしたちのような被爆者を再び出さないために、核兵器は絶対になくしてほしいと思います。


本田美智子

(当時十六才 女学生学徒動員中被爆)

 私は学徒動員で広島専売局にて被爆しました。妹は学生で勤労奉仕に出ているときに犠牲になりました。

 科学を悪い方向への進歩は絶対にあってはならないと思います。体の方はおかげ様にて今まで無事にやってこれました。


 本田租

 (三十四才のとき広島被爆)

 中国塗料の社員でした。八月五日午後、トラックで徴用の若い娘さん達を引率して佐伯郡五日市の奥八幡川上流の砂古谷に向かい夜着いた。
 爆心地から八キロ位、八月六日朝、ピカッとひかりドンと爆風、市内から砂古谷にきのこ雲が近づき雨が降ってきて小屋に入る。八月七日朝トラックで吉島本町に戻ることとなった。被爆地に入り、う回して明治橋を渡る。
 道も焼け跡も真っ黒な死体でいっぱい、ほとんど女、子供、老人。防火水槽に頭からつっこみ、尻だけが黒こげの死体、赤ん坊をかかえた母親の死体。
 二日目でも明治橋は地面がやけていて熱く、靴をはいていても歩けない程だった。

 呉の工廠から派遣されて広島居きていた弟は、大手町で被爆したが現存、母は自宅で被爆、姪は大手町で被爆、二年後に死ぬ。
 
 その後砂古谷に往復、九月に二度台風があって雨に洗われ、白骨となって死体が川岸、道、本川小学校辺にきっしり、思い出したくないが忘れられない凄惨な光景である。

 戦後になって、胃潰瘍、アレルギー等がつづき、代々木病院で肝臓が普通の半分しかない事も分かる。

昭和十九年突然の痛みで白濁した右眼は昭和四十一年破裂、黒い眼がなくなり、以来片眼完全失明、昭和二十三年、洋服の製縫業で軍に徴用され、上海で縫製していて妻が出産後死亡、広島に帰還した夫と結婚、三人の子どもを被爆後の多病とたたかいながら育てる。

昭和二十五年実子出生、東京に移転してからも縫製業を続けていた夫は十三年前に死亡。多病、苦労つづきで二十年あまり代々木病院で医療を受け、健康管理につとめ、前向きに日々を送っている。
 東友会や町友会の活動は全面的に支援している。日本政府のやり方は信用できない。核兵器廃絶を訴えつづけていきたい。
 

 湊徳夫

(当時十五才 県立二中生)

 学徒動員で兵器工場(広島市川口町)で被爆しました。身内で母、兄、姉をなくしました。戦時中空襲で親族を亡くされたお気の毒な方々は多くおられ、同情を禁じ得ません。

 唯、被爆者はこれらの方々と決定的に異なることは放射能の影響の不安が、被爆後一生続くことです。“原爆許すまじ”の原点はここにあります。


 城戸口照子

 (当時十一才 広島)

 当時のあの悲惨なありさま、脳裏に焼きついてはなれません。当時の話、映像で見ると心の奥から涙があふれてきます。
 被爆して八月八日に亡くなった父の話してくれたこと、私の見た広島の様子、話したくてもあまりにむごい出来事に心のふたがしまったように何も語れませんでした。
 語りかけると涙と共に嗚咽(おえつ)となり言葉にならなかったのです。

 今では年月も経ち、私も年を重ね、話せるようになりましたが、真剣に心からきいてくださる方ですと、当時に心が返り、涙が出てしまいます。幼なかった私の心の奥底に大きな痛みとして焼きついているようです。

 今の平和、本当にありがたく感謝です。これからの地球人類に核兵器ゼロ、戦争のない平和が続くことを祈らずにはいられません。


佐藤浩

(当時大学生二十一才 広島)

 決して戦争しないために次の三つを守っていただきたい。

一. 政府やマスコミの扇動的な宣伝を信じない。この前の戦争は政府などの宣伝と誘導で、国民が感情的に戦争開始を支持したために始まった。決して一部の軍人が始めたものではない。二度とこのようなことがあってはならない。

二.  常に駐留軍や防衛費を縮小するように努力をする。アメリカ軍は戦争することを目的として戦争し、防衛庁も戦争するために軍備を増強している。
 戦えば、負ければ当然だが勝っても大きな被害をうける。日本を戦場にしてアメリカが戦ってくれてもひどい目に遭うのは日本人だけだ。

三. 困っている外国に温かい支援をする。

 戦争をしないで隣人とつきあうためには親切に接するよりない。たとえば現在、北朝鮮の人々は食糧の不足で飢えに面している。それに対する人道的な援助を行なうのは当然のことである。


 原田一男

(当時三才 広島市白島)

 友人、同僚、同窓に自分は被爆者と永い間言えずに卑屈になりがちでしたが、妻と結婚してもしばらく言えずになやみました。現在は妻にも子供にも理解を得ていますが、まだ、一般、友人、同僚同窓には言えずになやんでいます。

 また、被爆当時三才なので記憶がほとんどありません。母を原爆で亡くしております。


 山崎孝次郎

(当時二十才 暁一六七一〇部隊兵長)

 私は比治山町の一六七一〇部隊兵舎内にて被爆、左ろっ骨不全骨折、左顔面右手甲火傷、前夜空襲警報のため徹夜だったので翌六日朝食後就寝その直後被爆したので、被爆時のことは記憶にない。
ただ負傷したので医務室に行く途中で見た、屋外にいた人たちのやけただれた皮膚、ふくれ上がった顔、泥人形のようになって死んでいる姿などは、今も眼の底にやきついている。
 何がおこってこんなことになっているのか、何も考えられず、ほんとうに恐ろしいという感じもおこらなかった。

 除隊後、学生、社会人となるにつれて、病気のことが常に心配で、毎年白血球の検査に一喜一憂していた。

 人並みに結婚したが、今度は生まれてくる子供に影響はないか、子供が結婚して孫が生まれてくると大丈夫か等々、これまでの人生で原爆の影におびえないことはないといってもよい程暗い日が多かった。

 現在の医療機関の先生方はどなたも言う。
「これまで生きてきたのだから、もう原爆の影響はないでしょう」と。この言葉を信じない訳ではないが、これまで生きてこれたかと、感謝して余生を静かに生きたいと思う。

 近代社会のエネルギーとして原子力の必要なことは判るが、これを戦力として用いることが出来ないように、国連で禁止条項を気見るように努力してほしい。


 和木主彦

(当時十二才 広島県立工業生)

 ピカドンの直前、日本の戦闘機はとびたっていったが、米軍機が広島上空に侵入するや、日本機は逃げるように吉島空港に。。。日本の敗戦を現実の問題として実感した。

 学校前の元安川堤防通、ピカドン後は逃げる人の群れ、その中で一組の親子・水を。。水を。。と叫ぶ声の連呼、水を飲めばどうなるか、わたしはわかっていたが、その親子に水を差し出した。その母子は静かに眠りについた。永遠に。。。今でもわたしは罪の責任を感じている。

 毎年、原爆の日、中学の同級生がほぼ全員死亡していることを思い出すとき感じることは、自分だけが生き残ったことが幸福だとは思っていない事だ。

 父親は当日広島市役所で直接被爆、その後胃ガンで亡くなったが、多分自分はそうなるだろうと考えると、アメリカの対外戦術に強いいきどおりをおぼえる。

 もう二度と経験したくないものである。


末国伴枝 

 (当時十六才 松江市立高女生)

 当時、呉海軍工廠に学徒動員中、狩留賀の寄宿舎から急遽帰郷が決定、広島に向い、広島駅から山陰木次線列車待ちのため、焼け野原に数時間居た。原爆が落ちた時は工廠内学徒たちは我先にと、必死に走って山手の防空壕へ入った。
 投下の瞬間は写真をとるときたくマグネシウムの様、一瞬目の前がくらみそうな光、その後ドーン,あれはなんだ、何がどうなったのか、工員さん達の指差す空はムク・ムクときのこ雲をみて、江田島の火薬庫が爆発したのかと伝えられました。

 昭和二十年九月、女学校卒業式、十月から日立製作所安来工場に元気で勤務する。その間に上下の歯はだんだんぐらぐらし出し、二十七才で上三本、下四本が義歯でも身体はおかげ様で健康でした。

 三十三才で結婚、三十九才で二人目の女児出産、この子が障害があり、その頃ようやく島根県の松江市の友達が、東京の人達六人が早く被爆手帳をもらう様にと言ってきたのが、初めてその様な動きがあることを知り、手続きをするけど、白内障の眼科の医師がつめたくてとても大変でした。

 戦死者、被爆死者、大勢の方々の御霊様のご冥福をお祈りいたします。戦争は殺し合いです。何を使って殺人してもよいものではないし、その前に戦争をしない様な国々であってほしい。人間だけが知恵をもった動物、その知恵をよりよい方に生かして地球の生物の共存をこそ願っています。


中川美代子

 (当時三十才 広島市東千田町で被爆)

 八月六日午前八時十五分,外出する寸前台所に立っていたら突然ぱっとあたりが明るくなり、なんだろうと思う瞬間ぐらっときて、障子、襖がとんでガラスが飛び散る、額に手を当てると血が流れてきて、あわてて布を出し傷口に当て、急ぎ外にとび出し、近くの日赤病院へ走った。

途中で大勢の人に出会い、日赤では負傷者が満員で診てもらえないとの事、引き返し家に帰ると近所から火事になり、避難命令が出て、家の者三人で宇品まで行き、広陵中学の門前で松の陰に場所をとり、午後軍医の手当てをうけた。
 傷が深いと六針ぬってもらい、一晩野宿をして、次の日移動して広大のグランドの体育館におちつく。主人を軍隊まで生存を確かめに四キロ歩いていく。顔中はれてしまう。無地で生きていてくれた。  

 被爆後は呉市に帰る。主人の父母と同居する。傷の手当に病院通いを一年余りする。その中に体内に子供のできている事がわかり、二ヶ月頭痛がしたり、傷がいたみ不快な日がつづくが、二十一年四月に女の子が生まれ、小さな子供がぶじに育つか不安の中に何とか育てなければと、原爆の恐ろしさが判ってくると、その影響を思い、我が身より子供への思いがいっぱいで悩み、心の苦しみへと変わっていく。

体内被曝の娘が、小・中・高時代に周囲の人に被爆者であることを隠し、大学生になると、将来の事を考え一層苦しみが増し、夜も寝られない日が続き、卒業の後、結婚問題に直面し、被爆者であることを隠す事に悩み、深刻になってきた。

 現在は年もとり、今日まで生かされてきた事を何よりも嬉(うれ)しく感謝している。
 町友会もできて、原爆に対する理解も世間に知られ、自分は被爆者という言葉を誰にでも話せる様になって幸せと思う。生きている限りは被爆者という心の痛みは消え去らない。

 二度と再び核兵器の投下されることのない様心から願う。広島・長崎の悲しい思いを世界各国の人々にも決してさせてはならない。
 機会ある度に、若者に原爆のことを話し続け、放射能の恐ろしさを訴えていきたい。


 中川秀曽

(当時二十五才 中国第一一四部隊軍人)

 当日私は白島町の部隊本部付として恩賞功績室に居た。その時部隊は裏門から応召兵が入ってきたので、知った者はいないかと見渡していると、急に応召兵が散ったと同時に「ピカーッ」と一瞬木を失った。
 気が付いたとき私は事務室の入り口まで吹き飛ばされていた。正確には爆心地の方向に吸いこまれていたのかも知れない。

 見渡すと建物の崩壊により、兵士が血だらけで右往左往していた。いわゆるケロイド、火傷は窓側にいたか、建物外にいた人達を無差別におそったもので、その症状は二~三日後に発見された。


 對馬弘美

 (昭和二十一年四月十四日生まれ)

 胎内被曝のため、被爆については自覚はありません。当時のフィルム、映像や体験者の証言によって知るのみです。現在まで病気や生活の苦しみを味わうこともなく幸せに生活しております。将来的には不安もあります。

 また、被爆者という自覚はありません。しかし、現在誰でもが被爆者になり得る環境にあるのではないでしょうか。原発、原潜、核実験など、被爆者はその事実、体験を語ってほしいと思います。


 沖本勝子

 (当時 国民学校一年生)

 私は広島市打越町四八九番地の自宅から広島県北婆郡東城町田森に疎開しており、八月六日午前八時十五分原爆には遭遇しませんでした。爆心地から二㌔程だった生家は火災からは免れましたが、爆風により半壊しました。瓦礫と化した家、雨もりの屋根の下での生活でした。
 その様な中で毎日の様に訃報(ふほう)が入りました。朝早く親戚の人が自転車で知らせて下さいました。あの人が亡くなった、この人も亡くなったという話ばかりでした。その内その連絡に来て下さった元気だった人も亡くなってしまいました。被爆後数日のことでした。

 入市の経路や日時は正確な記憶はありません。父方(打越町)母方(白島九軒町)の祖父母をはじめ、親戚中の人が被爆しました。実家の家屋は大きく傾き、屋根もふきとび夜は寝ていて星が見えました。

床もぬけおち、どうにか残った畳に大火傷の祖父が寝ていましたが、傷は化膿(かのう=うむこと)し、それにハエが卵を生んでうじ虫がはっていたのを見た事があります。二~三時間おきに薬をぬるため、またがれきの中を台所まで水汲みに往き来して、その後病気になりました。

 家を焼かれた母方の祖父母は掘立小屋を建て、祖母は当日の打撲傷で顔が紫色になっていました。そんな中独り生き残っていた姉妹がある朝その祖母の腕の中でなくなりました。父母が亡骸(なきがら=死体のこと)を川原で焼きました。(神田橋近く)

 中東戦争や最近のルワンダの難民問題、世界中の戦争をテレビで目の当たりにして同情し心を痛めております。世界中から原爆資料館を訪れた人々は展示品に思わず目をそむけると聞いています。
しかし、違います。被爆の被害や光景は中東やルワンダ以上の悲惨さでした。まさに地獄でした。正気の沙汰ではありません。痛かったでしょう。熱かったでしょう。喉が渇いたでしょう。水が飲みたかったでしょう。当時もしメディアの時代だったら世界の人びとは心を抉(えぐ)られていたでしょう。

 五十年目の節目を迎え、これまで亡くなった多くの人、今も次々と亡くなっていく方々のご冥福を改めてお祈りいたします。一種運にして死を迎えた人々は何を言いたかったでしょうか。

 残った者は代弁者として今後絶対に核兵器を許してはなりません。


 玖村敦彦

(当時十八才 広島高校-旧制―生)

 昭和二十年八月、自宅は牛田町にあった。本人は海田市の日本製鋼所に勤労動員され、原爆投下時には同社の工員寮にいた。原爆投下により、広島高等学校(旧制)生に多数の行方不明者が出たため、投下当日からたびたび広島市内に入り、捜索、救援活動を行った。

 投下後一~二週間から障害が現れた。主な症状は下痢、小さな傷までことごとく化膿しいつまでも治癒(ちゆ)しないこと(これら二つの症状は翌年三月まで続く)極端なだるさであった。
 一週間ないし十日を一周期として前半は極端にだるく、後半は正常な状態という判でおしたようなパターンがみられた。これは原爆投下後二十二~三年延々と続いた。

その後はパターンが次第に不鮮明となり、かつ症状の強度が徐々に減少した。とはいえ、だるさは、完全な解消にはなかなか至らず、だるさがおとずれたときの辛さは、やはり相当なものであった。幸い、最近の体調は比較的よい。

 自らの人生を顧みると、持てる力の半分でだるさとたたかい、他の半分で社会人としての働きをしてきたように感じる。


 木谷始  (故人)

(当時十六才 広島師範学校予科二年)

 わたしは原爆投下時、紀元二六〇〇年(1940)記念に植えられたという、海田市の先の山奥にあった学校林(杉の林)の下刈に出ていた。皆実町の寮から十六キロ離れた場所である。

 八月六日八時十五分頃は鎌をといでいた。ピカッと光った後、山林の木がザワザワとゆれたのをよく覚えている。夕方市内に帰る途中“助けて!助けて!”とすがりつかれたが、団体行動の中ではどうすることもできなかった。

 帰寮後は学校長の訓辞を受け、建物の下敷きになっている同僚の掘り作業に移った。遺体は廃材で棺桶をつくり、火葬にした。
 
 思い出せばきりがない程悲惨で痛ましい状況が胸裏に浮かぶ。教え子を再び戦場に送るな、ああ許すまじ原爆を。




  1. 2005/05/27(金) 20:57:35|
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長崎原爆体験記

長崎原爆体験記


山口勝信
    (当時十三才・中学一年生)

 私の生家は長崎原爆中心地から四・五キロ北にある、時津町(当時は村)元村です。

 私は当時東陵中学校の一年生で学徒動員により三菱造船所に勤務して約二週間が経っていました。 確か八月一日頃、三菱造船所も空襲を受け、私たちは裏山に掘られた防空壕の中で、約五十メートルはなれたところにも原爆が落とされました。
 防空壕の中では人間魚雷のようなものが作られていましたが、私たちはその傍らに蹲(たたず)んで、爆弾が落ちる度に凄まじい震動に震えていました。

 八月九日は朝から快晴の暑い日でした。朝八時頃、警戒警報のサイレンが鳴ったままになっていました。私の当時の勤務は午後一時からになっていました。通勤列車の時間も考えながら、森淳之輔という友人の家に立ち寄ってそこで弁当を食べて出勤するのを常としていました。すると、病気療養中の兄が言いました。

 「午後の出勤なのにもう出かけるのか、それに警戒警報中じゃないか。六日に広島に新型爆弾が落とされたそうだ。多分原子爆弾らしいぞ。

 私は格別意にも介せず
「午後どうなるかわらかないし、早めに友人の家に依っていくから」

 と言い残して時津の家を出ました。

 森淳之輔の家は、長崎駅から左手の山手にある福済寺の裏山の小高い所にありました。長崎港が眼下に見えて、長崎駅が真下にありました。
 家の裏は段々畑で、山が迫っていましたが、港の見える南側は庭のようなかぼちゃ畑になっていました。その先は、家々の屋根が連なり、緑色をした福済寺の瓦屋根がひときわ大きく、長崎港に浮かんでいるようでした。
その港の対岸がこれから出勤する三菱造船所になっていて、クレーンが動いたり、時々白い煙が立ち上がったり、様々な町の騒音が反響したりして、田舎育ちの私にはとても魅力的な光景でした。畑の傍らの水道で手を洗うと、まるでお湯のようでした。

 真白くピカピカと輝く港を見ながら早めに弁当を縁側で食べ終えた頃、ラジオが空襲警報を告げました。---島原上空を北上中の敵大型二機あり--殆んど同時にカンカンと敵機来襲を告げる鐘がけたたましく鳴りました。

 「森君!防空壕はどこ!」
 と叫ぶや否や、兼ねて聞き覚えのあるB29の爆音が南東の空から響き渡ってきました。私はとっさに白いシャツの身を隠さなければならないと思い、下駄をぬいで縁側に上ったそのときでした。ピカ-ッ と目のくらむ閃光と フワ-っとした熱風のようなものを感じ、私は無我夢中で家の中の暗い方にかけこみました。

 多分十歩も走ったのか、台所みたいな感じがした瞬間、ガーンと顔に砂がめりこむ気がしました。一瞬、真暗闇となり、静寂な時が続いたようでしいた。
 「見えない、聞こえない、どうしたのだろう」
と思っていると、
「淳ちゃん」
という声が聞こえ、
「ハーイ」
という声に続いて、
「お友達は?」
という声が聞こえました。私はハッとして
「大丈夫です。私はここにいます」
と答えました。それでも闇がつづいていたので「どこ」という声を頼りに、少し明るい方に歩いていって、三人が手をとりあって
「怪我していない?」
「良かったね」
と喜び会いました。煤や埃で真っ暗だったのだと気付いたとき、お互いの顔が煤で真黒のほかは元気そうでしたが、おばさんの足から血が流れていました。

 家の中はすべてが滅茶苦茶でよく見ると、柱が歪んで今にも潰れそうなのに気付きました。怖くなって外にとび出ると、不思議な光景を見ました。
 真っ青な空の下は一面真黒い煤煙の海が静かに視界を広げていくのを見ました。汽車や電車やクレーンなど、町の騒音が一切消えて水を張ったような静かな瞬間がありました。
しかし、それもあっという間のことで、俄に人に悲鳴や泣き声、物の燃える音の渦に巻込まれました。煤煙の海の中に緑色の福済寺の崩れた屋根が見えました。

 「寺に爆弾が落ちたのでは」

 「それにしてもあの光はなんだったのだろう?」
 と言い合っているうちに、煤煙の中に長崎駅の屋根やビルが現れ始めて、群衆の悲鳴が私たちの山手の方に段々とかけのぼってくるのが解りました。
 「小母さん、もう火の手が近づいています。逃げましょう」
 と叫んでも、呆然とたたずむ親子には通じないようでした。そこへ一人の少女がずきんを被って息をはずませて登ってきました。
 「お母さん」
 と叫んで少女はお母さんにだきつきました。
 「洋子ちゃん」
「姉さん」
 と言いながら三人の親子はだき合って喜んでいました。森君の姉で活水女学校の三年生であることを初めて知りました。

 私は一刻も早く家に帰りたくなって、北の方向の長崎のN・H・Kの方向に憩うとしましたが、血相を変えて泣き喚く人達がどんどんこっちへ逃げてくるのです。
 やむを得ず、私は森君の一家と逃げるほかはありませえんでした。森一家は裏庭の小さな池の中に何やらどんどん投げ込んでいました。その中、いろんな人から
「浦上方面は全滅だ」
とか
「早く逃げないと危ない」
とか
「寺町の方は安全らしい」
とか情報が伝わってきました。
 私達は、福済寺に火の手が上り黒煙が天を覆う頃、燃える家を見捨てて、諏訪神社の方へ人波に沿って逃げました。西坂町の方から山越えで逃げてくる人達は、血を流しながら、ドヤドヤ徒集まってきました。
 その中に十人くらいの白人の捕虜が手錠をかけられていて、日本刀を引き抜いた憲兵に引率されていました。

 群集の中から
 「こんな奴らは殺してしまえ」
 と怒鳴る人がいました。

 私達は森家の墓地のある寺町の山裾に行くことになりました。西坂町の方向は、天に届くような真赤な炎の壁がゴーゴーと轟き、パチパチ、パン、パンという音を立てて凄まじい炎の風を見ているようでした。
 墓地にはたくさんの人が集まっていて、水やおにぎりの配給が行われていました。
私は時津の家が心配でしたが、どうすることも出来ず、山影の墓地で西北の空が炎に包まれ、天にゆらゆらと動く様子をみていました。
 下の町の方では消防車の音や人の呼び声が渦のようにわきおこっていて、山に抱かれた様な墓地では蝉が鳴いていました。私は訳もなく涙が流れて仕方がありませんでした。

 暗くなっても西の空は赤々と燃えていました。敵機来襲を告げる鐘が鳴り、私達四人は骨をおさめてある「セコ」の石蓋をあけました。中は結構広くて持参した蚊帳を下に敷きました。小母さんは
 「先祖と一緒に死ねたらいいわ」
と言いながら親子三人一緒に入りました。

 「山口さんも入りなさい」
 と言うので、私は爆弾が怖くて必死にもぐりこみました。黴の異臭が鼻をつき、周りは水がたまっていました。お骨を入れた壷が私の首の傍らにありました。敵機来襲は二回位ありました。

 カンパンを二~三個食べ水筒の水をすするように飲んで、毛布にくるまって横になっても、蚊がいたりしてとても寝ることはできなかったようですが、町の中が静かになると、夜が明けるのを待ち兼ねて、朝四時頃だったでしょうか、四人は森君の家に帰りました。

 跡形もなく焼けつきて、バラバラに割れた瓦と台所の流し台だけが残っているように見えました。畑のかぼちゃが焼けて半分くらい食べられました。どこからともなくニャーンと猫がすり寄ってきました。

 「玉ちゃん生きていたの」
 洋子さんは猫を抱きしめました。猫は尾を火傷していました。森君一家は諫早の親戚に行くことになりました。私はまた会う日を誓って西北町の方へ向かいました。

 もう五時か七時頃だったでしょうか。裏山を少し右手に回ると見晴しが急に開けて、浦上方面の緑一つなくなった西北の山々が、絵で見た砂漠のようでした。
 昨日と打って変わり、殆ど人影が見えませんでした。N・H・Kの近くで下の道路に出る道を探しても瓦礫ばかりで、いたる所で火が燻っていました。

 思い起こせば、私はそのとき下駄ばきだったのです。方向を定めてとびながら進みました。
 赤毛の馬が真青な腸を出して道に横たわり、行く手を遮っているのを見たときギョッとして足が竦んだばかりか、本当に家に帰れるのだろうかと思うと心細くなって座り込み、涙が出てきました。
 それからどのようにして下の大通りまで出たかよく覚えていませんが、遠くの方で人影が動いたり、人の声を聞くたび「ああ、生きている人がいる」と思うと勇気がわいてきました。

 電車通りに出ると、車輪だけ焼け残った電車を見て、汽車も電車も自動車も全滅したことを知り、これは兄が言っていた新型爆弾に違いないと思いました。
 茂里町の三菱兵器の所で私はがく然として立ち止まりました。ここには私の姉が働いていました。鉄骨がぐにゃぐにゃに押し潰され、焼け焦げた工場は無残でした。

 「こんな惨状では姉が生きているはずはない、もし生きていたとしても、どこかで大けがをして苦しんでいるにちがいない」と思って、近くの防空壕を探さねばと考えました。

 茂里町から長崎医大に通ずる旧道があり、ここは小高い丘が迫っていて、横穴式の防空壕がたくさんありました。近くの防空壕に行こうとしたら、血まみれの憲兵がサーベルで半身をおこし、
「水をくれ、水をくれ」 
 と必死の叫び声をあげていました。もう一人の憲兵が
「馬鹿野郎、水を飲むと死ぬんだ」
 とどなり、私が中をのぞこうとすると、
 「だめ、だめ」
 と手を振りました。防空壕の中は暗くて呻き声が聞こえていました。私はこわくて逃げるように、医大の方に走りました。
 医大前の電車の停留所の角に浜崎という靴屋がありましたが、焼け野原でした。この靴屋さんの若夫婦は、時津の私の家の
離れに疎開して靴を作っていました。ここでは、おばあちゃん夫婦と女学生のお嬢さんが住んでいたはずですが、人影はありませんでした。

 電車と自動車道路の交差する浜口町で、初めて歩いている人に会いました。頭髪はなく、頭は墨のように黒く、二つの目がふしぎにギョロギョロして白い歯が見えました。
 着物はボロボロで杖をついてまるで影法師のように私の方に近づいてきて、
 「ぼっちゃん、怪我しとらんとね、よかったね、先へ行けばもっとひどかばい」
 と言いました。私は恐ろしくて逃げようと思っていましたが、本当にほっとしました。私は何も言えず、急に足がふらふらになり座り込みました。
 「どこまで行くとね』
 と尋ねられて、
「時津の家に帰るところだ」
 と言うと、
 「ほう、そりゃ危なかばい、横穴のあるところまで行かんとね」
 と優しい小母さんの声でした。

 その時、晴れ渡った青空に飛行機の爆音が聞こえました。この場に二人は死んだように伏せて、飛行機の去るのを待ちました。多分十時か十一時頃だったでしょうか。爆音が去ると、小母さんは自分の体を見せるような仕種をしながら、
 「見てみんね、こぎゃんやられて憎らしかね、仇(かたき)は取ってくれんねよ」
 と言って立ち上がりました。私が大きく頷(うなづ)くと、
 「皆が心配して待っとるばい、早う帰って安心させてやらんね」
 と言いました。

 私は黒焦げに半壊した鎮西中学校のビルや稲佐山から城山方面の山々がすっかり焼けつくして、長崎がこんなに広かったのかと初めて赤茶けた砂漠のような町を見て、人々は皆死んでしまったのではないか、と思いました。

 長崎刑務所の前の石垣が下がえぐられて、上に吹き飛んだようになっているのがふしぎな光景に見えました。
 至るところに黒焦げになって死んでいる人がいましたが、働いているものは殆ど見当たらなかったのです。こんな光景の中で、ふしぎに「自分は生き残ったから、この様子を皆に話したい、生きて帰りたい」と激しい衝動が湧くものであることを知りました。

 大橋の欄干に真っ赤に焼けただれた男の人が、瞳を半開きのまま全裸で座ったまま死んでいるように見えました。大橋の鉄橋にかなりの人が集まっていました。
 橋の下や川の中にも人が動いていました。私ははじめて生きて帰れるかも知れないと思いました。よく見ると憲兵が怪我をしている人を列車に乗せている所でした。 私は憲兵に
 「汽車はすぐに出るのですか?」
 と聞くと、
 「怪我していないのなら歩け、汽車は当分出ないぞ」
 と言いました。私は線路の上を走るように、道ノ尾の方へ急ぎました。その頃から人の往来がかなり見受けられるようになりました。線路の土手は夏草が見えはじめ、六地蔵の辺りは青い夏の田んぼが広がっていました。

 漸(ようや)く時津の入口、内坂の堀切にさしかかった時でした。家に疎開して靴屋を営んでいた浜崎の若主人が、私の前で棒立ちになってしばらく呆然(ぼうぜん)としていました。
 「勝信さんじゃないかね」
 「はい」
 「みんな心配しとらすよ、早う行って安心させんね」
 私はつぶさに、
 「おじさん、浦上から全廃ばい、おじさんちもなんもなか、おばさんたちもどこへ言ったか、探しようがなかばい」
 と言って別れました。

 私は渾身(こんしん)の力をふりしぼって、坂を転げるように走りました。継石まで来ると、青々と広がる田んぼの中に我が家が見えたとき、母にとびついて泣くかも知れないと思いました。家の前の道路には、母や長女の姉や素懐の木原さんたちがみんな手をあげて待っていました。

 「お母さん、帰ってきたよ」
 と言うと、母は声を出して泣きながら私を抱きました。母が私を抱いたのは後にも先にも人生の中で、唯一度だったと思います。姉も木原さんも声をあげ泣いてくれました。

 私は真先に流し台に行って水を飲みました。すると、南向きの流し台の前のガラスがみんな割れていました。二階のガラス戸も南側は爆風で吹き飛び、その後キノコ雲が出たことを初めて聞かされました。
 何よりもびっくりしたことは、茂里町の三菱兵器で働いていた姉が、全く無傷で家に帰っていたことでした。姉は工場の傍らで水を被(かぶ)り、工場をすぐ逃げ出して、近くの山を伝って、山越えで夜中に帰ってきたのだそうです。

 疎開の人の浜崎靴屋の主人は、家族の行方を捜すことができず、その日の夜遅く憔悴(しょうすい=つかれ)きって帰ってきました。
 後で聞いた話ですが、お嬢さんが、半身黒焦げに火傷して帰ってきたが、話すこともできず、気が狂ったように苦しがっていたと。そして数時間後、急にとびおき、ずきんを被って外へ飛び出すと、側溝に身を丸めると「怖い、怖い」と叫びながら死んだということです。

 城山町に住んでいた従兄弟が十一日の午後、無傷で、元気にひょっこりやってい(来?)ました。長崎西校(旧瓊浦)グランドで被爆して吹き飛ばされたが、怪我はなかったそうです。

彼は、叔母、母のことを、自宅で顔や手足を火傷し、家は全壊、父は三菱長崎製鋼所で即死、次女は城山中学校で教鞭(じゅぎょう)中即死したこと、弟達が近所の人と川辺のテントにいること、その他、そのケロイドの母が今朝長崎市民病院に入院したこと等を話しました。
 それから私は兄と二人で、その全焼した叔母の家を片付けたり、バラックを建てるため、リヤカーを引いて何回となく城山の焦土へ行きました。

 それから、その従兄弟は私の家に居て、米を搗(つ)いたり、草をとったりして手伝っていたのですが、二週間もしない頃から元気がなくなり、腕などに小豆(あずき)大の赤黒い斑点が出て、頭髪が気味悪くボソっとぬけました。

 九月二日のことでした。ミズリー号上で終戦調印式が行われる日のことでした。食事もしなくなって、急に
 「お母さんに会いたい」
 と言いながら、長崎の市民病院に歩いて出かけました。これも後で聞いた話ですが、青ざめて母の病室に入るなり、
「お母さん」
と言って叔母に抱きついたそうです。叔母が
 「苦しいね」
 と尋(たず)ねると、
 「苦しい」
 と答えたまま、息がきれたということでした。




  1. 2005/05/27(金) 20:46:05|
  2. 長崎|
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ぜひ伝えておきたいこと

ぜひ伝えておきたいこと                  

                   

                勝野タカ(当時三十六才・主婦)

 長崎市東小島町、大通りに沿って建てられた石崖の上の家は、爆風を真正面から受ける状態、私は半ば裸体で休息していた。突然、遠くに強い光を感じ、ゴーッという音におどろき、奥の部屋に逃げた。

 母(六十八才)兄嫁(三十六才)私(三十六才)長女(五才)次女(二才)五人は、身を寄せ合って何か落ちて来る事を感じ夢中だった。数秒して静かになって、あたりを見るとガラスの粉ばかり、けがは長女が少し破片で血の出るくらいだった。縁側は弓なりに曲がり、天井板、瓦が所々はげていた。

 家の主である私の次兄(四十三才)は三菱兵器工場に勤務していたので毎日が不安であったが、義姉や親戚(しんせき)の者が手分けして毎日さがしたが、爆心地にいたので遺体も見つからず、悲惨な人々を見て帰ってきた。私は出産前で歩き回ることもできず、兄嫁は悲しむ一方に、私たちの世話は誠に気の毒な毎日だった。
 
 私は九月出産予定だったので、三月末、東京大空襲を目前に見て、故郷の実家に相談する時間もなく、頼っていったのだった。(夫は久留米(くるめ)にて勤務)食糧難の最中に申し訳ないことであった。

 九月二十八日女児出産、その隣の室には老いた母が被爆以来、心臓と悪性の腸でねこんでいた。十月十九日死亡。

 昭和二十二年九月、ようやく東京で勤務の夫と家族一緒に住むことになったが、四畳半に五人の生活、次女の呼吸器病、七年間の養生(ようじょう)、三年遅れて小学校へ入学、三女も甲状腺(こうじょうせん)手術、結婚はしたが、私には一人も孫が出来ない。長女は難産で死亡、夫は昭和五十一年二月に死亡。

 現在私は八十五才、娘(次女五十一才)と娘婿(五十一才)の三人暮らしである。私はこの二人に守られて感謝の毎日を過ごしている。

 戦後の長年月を思えば、困難もずい分あったが、のり越えられてきたのは、国民全体の努力の賜物(たまもの)と感謝している。
 世界のあちらこちらで今も戦争がたえないが、日本は原爆の悲惨をなめた唯一の国だが、今後絶対に使用しない事、絶対に廃止する事を世界に宣言していただきたい。
 私は骨粗鬆症(こつそしょうしょう)で歩行困難でほとんど外出しないが、皆様のおかげで何かの用になっていると自信をもっている。




  1. 2005/05/27(金) 20:41:27|
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原爆を”生”の原点として生きる

原爆を”生”の原点として生きる
                              
 山本典人
(当時十六才・学徒動員)

 「城山小学校の三階校舎に嘉代子の上半身だけが焼け残っておりました。それを風呂敷に包んで校庭で火葬したのでございます。私もいっしょに死にとうございました」
 一語、一語、悲しみ殺すようにして話すおかあさんの心情に私は幾度も目頭をおさえたのだった。嘉代子桜との出会いは私の本格的な平和教育の出発点であった。
 私が「かよこ」桜(新日本出版社)を上梓したのはそれから数年後である。

 原爆で私は五十四名の学友を奪われた。教壇に立ちながらも後遺症に悩まされ他界した学友は五十余名。古希近い年までよくぞ生き延びてきたと思うこのごろである。
 亡き学友の無念を心に刻み、今後も、平和憲法の理念にたち「ふたたび原爆許すまじ」の旗を高くかかげて進もうと思う。

 生命燃えつきるその日まで
  平和と真実の道ひとすじに

 これは私の人生信条である。




  1. 2005/05/27(金) 20:39:46|
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被爆者として訴えたいこと

被爆者として訴えたいこと

                              加藤美代子
(当時 長崎私立高女子生)

あの時の光景や出来事(できごと)

 昭和二十年八月九日、私は長崎市浦上の爆心地から北へ七・五キロの西彼杵郡時津町に住んでいた。当時市立高女の聖徒だった私は、学徒動員の仕事を休み、母が着る「お盆」のためのワンピースを縫っていた。自宅は前方に山一つへだてて浦上の町に対じしていた。

 空気がよどみ、風のない暑いその日十一時前、突然、役場のサイレンが警戒警報を発令、やがてそれは空襲警報へと変わった。この頃は時津上空を通って大村航空隊へのアメリカ機飛来が多くなっていたので、すぐ心の中で避難体制ができていた。
 しかし、警報のみで爆音はなく間もなく空襲警報解除のサイレン、家には私のみで父母は裏手の丘にある畑仕事に出かけ、弟は小学校へ行っていた。
 別棟の一部屋を貸している鹿児島出身の二反田さんは兵器工場に、奥さんは0才の赤ちゃんを寝かせつけて、長女(三才)を連れ、米の配給を受けに町まで出かけていた。

 突然ピカッと強烈な光が走った。今まで体験したことのない閃光に一瞬ぼう然とし、しかし私の脳裏(のうり=頭の中)に「敵機来襲」の予感がひらめいて身を守らなければ、という思いがつきあげてきた。とっさに仕事をほおり出し、座敷にとびこんで布団をかぶった。
 その時、また二度の閃光が走った。と同時に、「ドーン」というものすごい大音響、私は何がおこったのかわからずしてしばらくはそのまま、じっと座り込んでいた。

 生きているのか死んで入るのか、やがて私の頭に次の考えが浮んだ。「生きているなら体をつねってみればいい。痛かったら生きているんだ」と。私は右指で左のふとももをつねってみた。「痛い!」私は生きている、こわごわと布団をもちあげ部屋をみた。
八畳敷の畳(たたみ)はもち上がり、縁側の雨戸は破損していた。そして今まで針仕事をしていた部屋のガラス障子は粉々に飛び散り、まわり一面に散乱していた。私の思考が少し遅れていたら、私の顔には今頃無数のガラスの破片がくいこんでいたに違いない。
私はハダシで土間にとびおり、赤ちゃんの部屋に走った。ヨロイ戸だけのこの部屋は、赤ん坊に何の傷も与えていなかった。私は赤ちゃんを抱き上げ家の後方、竹林に掘った防空壕へ急いだ。

 人の声がする、それは林をへだてた家の池田さんの母娘であった。口々に安否を確かめあいながら、この突然の出来事が何なのか話し合った。ここは森の中で変化は何も解らない。
その中に母が降りてきた。二人は青い顔で、閃光と音に驚き、いも畑の中にうち伏したという。その時、黒い雨が降ってきたといった。
父母と娘は揃ったが、弟と二反田さんとその長女の安否が解らない。とりあえず、家に戻ることとなった。その時初めて前方の山の上空、則(すなわ)ち長崎浦上に大異変がおきていることが解った。
数十分前まで太陽に照らされ、明るかった上空は炎の色に染まり、空は暗くなっていた。長崎方面が大変なことになっていた。
 
 家の下の道に人影がした。市村さん(六十代の男性)であった。
 「長崎方面から全身ヤケドでボロボロの服を着た人が大勢歩いて来ている」
 と大声で私達に怒鳴(どな)った。長崎、浦上と時津は一本の大きな県道でつながっているのだ。やがて二反田さんの奥さんが長女をつれて、これもまた青い顔で帰ってきた。 弟達は閃光が走った時、教室の机の下に全員もぐったという。
 私達は兵器工場に出勤している二反田さんの帰りを待った。無事だったらいいのだがと。その人は一晩帰らなかった。やがてあくる日、顔はどす黒く工員服はボロボロの二反田さんが帰ってきた。
私達は大喜びで迎え、無事を喜びあった。彼は爆撃の後、体の損傷もなく、稲佐山を徒歩(とほ)で歩き、時津の待ちに帰り着いたという。その山(長崎市西側の山)には無数のケガ人がひしめき、地獄の様相だったという。
 彼は外見上無傷であった。当人自身の無事を喜び、やがて勤務先の倒壊のため職をなくし、鹿児島に帰郷された。なのにその一ヶ月後、訃報(ふほう)が届いた。原因不明の出血、毛髪の抜け、体力消耗により死去と、今思えば原爆による白血病死である。

 前に書いた池田さんの長男の妻は結核だったため、浦上にある長崎医大付属病院に入院し、折り悪(あ)しく(今にして思えば)九日が退院の日であった。夫の春樹さんはリヤカーを引いて朝早く奥さんを迎えに出発していた。そして原爆投下にあった。

父は翌日から池田さんに請(こ)われて、近所の人々と浦上に向かった。一両日煙のくすぶっている街々、「穴コウボウ」(医大病院の東側の山)の付近をくまなく探してまわった。
 そこにはおびただしい人々の死体、爆風にふきとばされた格好(かっこう)のまま、あるいは家の下敷きで息たえていたという。もちろん、犬や猫、馬も牛も。池田さん夫婦は大橋の上で発見され、戸板に乗せられて無言の帰宅をした。

 それから三日たった十二日、私は母や近所の人々に連れられて浜田郷にある「万行寺」に、被爆した人々の介護に向かった。本堂の広い板の間には、緊急に集められた布団の上に、傷ついて長崎から逃げられて来た人々が横たえられ、これも徴用された長崎医専の学生達が白衣を着て介護に当たっていた。
異常な雰囲気の中、悲鳴やウメキ声があふれ、臭気がただよい、患者の傷の中からウジがわき出ていた。今の人はこれを聞いても信じられないことであろう。しかしこれは現実のことだったのである。

 私の小学校の時のクラス・メイト岩田さんも被爆してこの寺に収容されていた。その美しかった顔は、ガラスの破片がくいこみ、その取り出し手術(でも)、無惨な顔に変わっていた。彼女は被爆して十代のまま人生を終えた。

 寺には朝鮮の人も収容されており、「アイゴ、アイゴ」の泣き声は終日本堂に響いた。今その人達はどうしておられるであろうか。現存しておられるだろうか。八月九日がおとずれるたび、この情況を思い出し、六十五才になった今でも涙があふれてくる。

昨年(平成五=1993年五月)小学校の同窓会があり、出席できなかった私に名簿が送られてきた。男子組七十五名、女子組八十名、その中で原爆による死亡者は合わせて三十三名で、十六才になるか、ならないかの短い人生であった。
 名前の上に符(ふ)せられた物故(ぶっこ)を表す黒丸が、その人の幼な顔とだぶって痛々しかった。
 混乱の中できいたうわさ話では、投下された爆弾の名は「新型爆弾」で広島に落とされたものと同一であり、当時から七年間は草も生えない恐ろしい毒の爆弾と聞いた。そして日は過ぎやがて十五日の玉音放送となるのである。

被爆後の病気や生活の苦しみ

 終戦の翌年、教師の道をめざし、長崎青年師範学校へ進学した。(現長崎大学)そして卒業と同時に昭和二十四年四月から三十二年まで西彼杵郡の三つの公立中学校で家庭科、国語科、音楽科を担当した。
 当時は所得免状以外に素養のある教科を受け持つことが常であった。若かったせいもあり、また、被爆者の看護をしたため、第二次放射能汚染も受けたということを知らされないまま歳月は流れていった。

 そして昭和三十年、日本女子大学に編入学卒業後家庭に入った。二人の男児を育てながら高校の講師を十一年間勤め、専任試験を受けてパス、昭和四十九年から都立高校の教諭となった。同年十月、職業と家庭の両立で過労ぎみとなり、体もだるく、血圧も上がってきた。
また時折胃も苦しい、更年期前期でもあり、漢方薬局で薬を処方してもらい毎日服用していた。しばらく後に右乳の脇が痛むようになった。胃の変調も気になる。私は思いきって池袋の癌研の内科を受診した。
 内科では単なる胃炎と診断、ただ外科の外来では受診者多数のため、長時間待つこととなった。あまりの長さに私は、カルテを取り下げる旨(むね)を申し出た。

 その時、受付の女性が、
「今まで待ったのだから、少し辛抱したら」
 と言って下さった。私は思い直して順番を待った。今にして思えば、この女性の一言が私の生命に関与することになったのである。

 診察の担当医は外科部長の久能先生であった。何ということであろうか、先生は痛い方の右乳ではなく、左乳の上部に持っていた黒いマジックでチョンとX印をつけ、
 「ちょっとおかしい所があるのでレントゲンをとりましょう」と言った。そして二度のレントゲン、組織検査とすすみ、乳癌がみつかったのである。
 その時の私の動転は今でも鮮明である。長男は翌春高校受験、二男はまだ中学一年生、私の人生は二人の子と夫を残してこれで終わるのか、と暗たんたる思いであった。

 十二月二十七日執刀、以降三ヶ月毎の検診を受け、その結果におびえながらの十九年であった。幸い早期であったため、左乳はなくしたが今のところ順調である。
 しかし手術後ケロイドとなり、左胸の傷みは消えない。昭和五十五年には子宮筋腫、六十二年には帯状包診、六十三年肝臓障害と続き、心身共に難問を迫られている。
 唯感謝しなければならないことは、
 「もう少し辛抱して待ってみたら」
の受付の女性の一言である。私にとって、それは今まで生きて来ることができた命の恩人の声である。あのまま帰って放置していたら、今の私は存在していないかもしれない。後年、その女性にお礼を申し出たが受け入れてもらえなかった。本当に私にとって神のごとき存在であった。

 数々の「痛い」の連続であった。「健康な身体に健全な心は宿る」といわれる、まことに至言である。体力がなく、病気への快復力が弱い私は、また心も強固ではない。もし二次的とはいえ、被爆の全くない身体だったら、私の左乳はどうだったか、その後の免疫力はどうであったか疑問は尽きないのである。

 ある時三十二才の次男が言った。
 「僕は被爆二世だからな」
 彼は私から生まれた故に、この思いをもって生きていくのだろうか。そしてもしそのような病気になったら、思いがけない自分の運命と私を恨(うら)むのだろうか。
 原爆を生み出した科学者とそれを投下した国によって幾多の人々とその子孫まで類をおよぼすこの結果は一体何であろう。原爆記念日を迎えるたび、この私の憤激(ふんげき)は天をつく。
 
 昭和五十二年五月、原爆投下の日「いも畑」の中に打ち伏した母は肺ガンのため八十二才で他界した。いとこの綾さんは乳癌から生還したが、その妹は同じ病気で他界した。幼い子を残して。

今、被爆者として訴えたいこと

 私自身の中には被爆者としての自分が信じがたい。だからあれから二十九年たって乳癌になった時初めて郷里の弟から、時津町在住者(当時)に被爆者手帳が公布されている事を知らされた。弟は電話で言った。
 「姉さんが病気になるんだったら早く手帳のことを教えればよかった」と。
 弟はそのようなことのあった少女時代の私の出来事を義兄に知らせたくなかったのだ。何と言う広島、長崎の原爆に会った人々の不幸、それが次世代にも続く不幸であるだけに。(何故に被爆者である事にうしろめたさを感じなければならないのか、自分の責任でないものを)

 日本はもっと全地球人類の為に、生きとし生きるものの為に原爆の恐怖を訴え続けなければならない。唯一その悲惨さと恐ろしさを体験的に知らせられる国だから。それなのに、政府はおとなしいのか、何故ちゅうちょするのか解らない。

 「見るは百聞にしかず」願うべき核保有国、核開発途上国の首脳を広島・長崎に招き、当時の惨状と現存する人々のつきない心身の苦しみの実態を知らせたい。
 また、世界の人々にその事を具体的に啓蒙し核の悲惨さを浸透させねばならない。その事が被爆国日本の使命だと思っている。




  1. 2005/05/27(金) 20:34:31|
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第二三〇師団輜重隊の広島被爆救援活動

第二三〇師団輜重隊の広島被爆救援活動


須藤雄正 
(当時二十一才 軍人)

 本輜重隊(しちょうたい)は昭和二十年六月、東京目黒において新しく編成された本土防衛部隊である。
 七月上旬(記憶では七月五日)東京から広島県賀茂郡原村原廠舎(JR山陽線八本松駅より北へ四キロ)に移転し、終戦の九月下旬までいた。

 八月六日朝礼後八時過ぎ、一瞬、閃光と轟音(ごうおん)を感じた。しかし空襲は常時受けていたため、爆弾による何時(いつ)もの閃光と考え、あまり気にもしなかったが、多くの兵士が集まって上空を指差している。天を仰ぐと、そこには無気味な固形雲が昇っていった。

 いい知れぬ無気味な感じを抱きながら、じっとみつめていると、キノコ雲の下から、さらに新しい雲かと思われる灰色の雲がもくもくと出現した。

 B29が空中衝突して、その機体が落下して、地上の石油タンクに命中したのであろうと憶測するものもあったが、その実態はさっぱり掴(つか)めないまま、間もなくその日の教練に没入(ぼつにゅう)した。

出動の状況

 八月六日の夕方にいたり、午前中の異様な雲の状況から、何か特殊な緊張感が漂(ただよ)っていた。間もなく上官から救援隊の出動命令が下達(かたつ)され、軍医官の健康診断が行われ、それにパスした兵士のみが出発した。
 時に午前七時頃であった。

しかし、それが原子爆弾であることは夢想だにしなかった。八本松駅まで行軍し、午後八時暗雲の中を汽車に乗り込んだ。汽車は速力おそく、漸くにして広島市郊外の向洋(むかいなだ)駅に到着する。
 ここから行軍して市内に入ったが、すでに八月七日の夜明けであった。夜の白々明けた市内の惨状は想像を絶していた。
 
救護活動の状況

 広島市内に入るとまず、中国軍管区司令部(広島城内)に入ったが、建物は焼失、または吹き飛ばされて、天幕(てんまく)で仮設した敗残姿の司令部があり、そこに参謀と数人の将兵がいた。
 周囲は根こそぎ倒れた松、けやきなど、また司令部の堀池のハスは茎のみが残り、葉はすべて吹き飛ばされていた。
 池の中では「あひる」のみがこの惨状を知らぬかのように、飛ばされてきた木片や畳の上で元気よくたわむれていた。
 そこで指定された私たちの作業現場は、司令部内の死体の捜索(そうさく)であった。

 城内の崩れた煉瓦(れんが)の下、崩れかかった防空壕の中から死体を引き出して、指定の場所に安置(あんち)した。真夏の太陽は容赦(ようしゃ)なく地面を焼き、今にも燃えつきそうに思える焼け跡を、とぼとぼと放心状態で仮設の救護所へでも行くのであろう人々の歩く姿が見られた。
 八月七日は死体収容の作業で一日が終わったが、夜は広島駅北の練兵場で野営である。

二日目 八月八日

 市内一面焼野原の中、ただ一つ残った大きな建物は「福屋デパート」(現存)である。朝からこの建物の中の死体の捜索である。
 二階、三階を中心に捜索したが、中は全部焼失している。デパートの開店前であった関係で、宿直員であったと思われる死体を確か二体収容した。建物の中で昼食をとり休憩(きゅうけい)した。午後は陸軍幼年学校周辺の負傷者の収容である。

 いざ、出発時間が来たので準備していると、同年兵が飛んできて、一階は負傷者でいっぱいで簡単には出られそうもないこと、一面焼野原の(ため)日陰を求めて、周辺のどうにか動ける負傷者が、この建物の中に寄り集まったのである。ようやくにして負傷者を動かして外に出ることができた。

 陸軍幼年学校の建物は跡形もなく吹き飛ばされ、土台のコンクリートのみが残っていた。仮設の救護所が設けられていたが、名ばかりで壊れた家屋の柱や板切れを集めて造られた、雨露をしのぐだけの小屋である。いままでと違った負傷者の収容である。

 負傷者のすべては熱線による火傷で、半袖シャツ一枚で覆われている所以外の部分、顔、首、腕以下指までの火傷、焼けた皮膚の垂れ下がり等である。幾人(いくにん)収容したであろうか、火傷であるため、水を要求するものがほとんどで、
「兵隊さん、水をくれ」
 の微(かす)かな声は今でも耳の奥にこびりついている。収容の途中で水を飲ませたため、末期(まつご)の水になってしまったのも数件あった。

 広島市内の軍需工場には、市内の中学校はもちろん、近郊の中学校から学徒動員で数多くの生徒が働いていた。その学徒を探す多くの母親、何とも痛ましい姿であったろう。

 その頃から、私たちの体に変調がおこっていた。初めの内は暑さのための疲労と考えていたが、極度の倦怠感(けんたいかん)に見舞われていた。第二日目の作業も終わり、前夜と同じ場所で野営したが、分隊の大部分の人は原因不明の下痢に悩まされていた。
 後で(復員後)分かったことだが、第二次放射能を浴(あ)びると、人は下痢をおこすとされている。

第三日目 八月九日

 八月九日の朝になり、交替要員が到着、私たちは原隊復帰のため、広島を後に帰路についた。広島の街をすぎると、郊外には稲田が多く見られるが、気をつけてみると、爆心地方面に面した稲田はほとんど枯死して灰褐色(はいかっしょく)となり、樹木や家の陰などの遮蔽物(しゃへいぶつ)のあった場所は、遮蔽物の形のまま青々とはっきり輪郭(りんかく)を示して残っていた。

 また、山の木々の葉は、八月というのに十一月の枯葉のように枯れ果て、放射線の凄まじさを物語っていた。また、部落の家の屋根瓦は爆風のためほとんど崩れ、完全なものは見られなかったし、建物は爆風により土台から崩れているものも見られた。
 その日の午後三時すぎ、原村廠舎に無事帰還したが、体の倦怠感は残っていた。

 以上、私たちの部落の広島救護活動の概要(がいよう)であり、四十九年という長い歳月でもあり、記憶に残った部分的なものを述べたにすぎない。

 元総部二七六九九部隊第一中隊第一小隊
  第一分隊陸軍一等兵  須藤雄正 記す




  1. 2005/05/27(金) 08:19:19|
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昭和二十年八月六日の記

昭和二十年八月六日の記

             井手俊文
(当時十六才 高等逓信講習所生徒)

 当時わたしは昭和二十年四月一日より逓信講習所(東京都/国立)に入学することになっていましたが、食料事情、交通事情悪化のため「現地ニテ実習スベシ」との命令により、広島搬送工事局に実習生として勤務中(広島市雑魚場町)にて被爆、なお母と二人暮しでした。

 さて、つぎの時代へ残す目的としての証言につきましては、現在に至るまで詳しい模様など家族にも話したことはなく、ご依頼も無視して参りましたが、東友会、町友会の方々の熱心さにうたれ、記述する気持に変わりました。
 しかし、七十才の足音が近づくにつれ、文章を書くのが億劫になり、「あの時の光景、出来事」については当時の日記をそのまま転記させていただきます。
 私は昭和十八年以来、毎日日記を数行書いていましたが、なぜか、八月六日だけは詳しく書いていました。当時の十六才の少年の拙文(せつぶん)ですが、あえて書き直すことなく紹介いたします。
 
 本日母は隣組の疎開家屋後片付け作業の鶴見地区に割り当てられていた。となりのラジオ屋とその隣の万年筆屋のおばさんの三人。

 私は母より十分ばかり早く家を出る。心臓の弱い母が夏の太陽の下で脳貧血をおこしはしないかと心配しつつ。

 母はモンペをはき、麦わら帽子をかぶり、小さな弁当を用意していた。六時四十分頃発令されていた警戒警報は出発前に解除される。B29が四機、各々単機で広島上空を通過したとのこと。そのためゲートルもつけず家を出る。

 比治山をこえ、鶴見通り、県女の前を通って電車通りと歩き局につく。到着八時五分、朝礼におくれる。すぐ上衣をとり、炊事場で水を飲み、机の前に座る。

 友、出原は宣伝を信じ、爆撃を恐れ、福山に帰省のため、友は福永のみ。

 時間は八時十二分か二分過ぎたか、三分過ぎたか、ピカッとフラッシュのごとき閃光、瞬間頭に浮んだのは電気設備の多い局舎で、どこかショートさせたなと思う。瞬時をおかず、物凄い爆風、局舎壊滅、その間何も考えられず、柱が屋根が、いやという程頭に降り、体を叩き付ける。全く生き心地なし。

 崩壊が終わった後、右手はなぜか火傷の水ぶくれができており、左頬、左手、右足から出血。右手にはキャップのついた万年筆をまだ持っていた。シャツもズボンも破れ、今日変える時はどうする、このみっともない格好で、と思ったけれど。
 幸いにも骨折はなく、立ち上がる。頭の上の材木類は案外(あんがい)簡単に取り除かれ、空をあおぐ。もうもうたる土煙、太陽はかすかに黄色く見える。小学生の頃、燻したガラスで日蝕を観測したのと同じである。隣の市庁のガラス窓は全部破れ、泣きわめく声まさに悲痛、地獄の修羅場(しゅらば)でなくて何である。

 今まで電気事故のため、局だけが崩壊したと思っていたが、広島全体がやられた。遂(つい)にやられた。今まで戦災にあわなかった広島が。アメリカ!! 憎悪より恐怖がわく。

 気がつけば足下からうめき声が聞こえる。福永が顔面を血だらけにして助けを求めている。材木を払いのけ、やっと救出。庶務(しょむ)の新谷、左足骨折、血の滴る大腿骨が皮膚を突き破っている。助けようとしても悲鳴をあげ意のごとくならず。
「電話をかけてくれ、なかの55番だ」と叫ぶ。いくらなだめても「電話を」と絶叫(ぜっきょう)する。助けを求めるために外に出る。市庁、中国配電、そして工事局から全裸となった男、そして女が出て来る。大きな火傷をしている。兵隊が日本刀の刀身だけをもって局の庭に来ている。戦闘帽の下の頭髪はきれいになくなっている。

 土煙の中から四方を見れば、方々に火焔ものすごく、音を出して燃えている。瞬間、頭に浮んだことは母!母!!母がいるであろう鶴見地区の方は火焔二条、天に向かって突っ立っている。両手を合わせて無事を祈る。自分は運良く軽傷。隣組の注水訓練を思い出し、バケツを探し、一杯、二杯かけても、火勢は益々(ますます)強くなるのみ。その間に釘をふみつけ、出血箇所まで増える。

 自分の荷物を取りに行く。圧死している土木課長。崩れてしまった自分の机からゲートル、救急袋を出す。父の形見の懐中時計を入れた上衣、それにいくら探がしても帽子は見当たらず、火勢益々強まり、近づき、遂に諦める。

 防火用水の汚い水の中に身を沈め、体を濡らして市庁の庭に退避(たいひ)。しかし、すぐ三階に火が移る。色々な配給用紙が火の尾をつけて飛び狂っている。体は熱くてたまらず、局の前の疎開家屋倒壊後へ移る。幾人かの死骸、全身やけどでけいれんしている赤児(あかご)につまずきながら。
 防火用水の傍らに座る。出血が目鼻に入るため、ゲートルで顔を覆(おお)い、再び水を被り、すでに火焔のなめつくした南の方に脱出を試みたが、比治山通りのアスファルト道路を這(は)い寄せる焔に、思わず身をひるがえす。身は熱くてちぎれそうで、背中は火のついているかのよう、瞬間、死を覚悟する。

 やはり駄目だ、脱出を取り止め、小さな焔をいくつか跳び越えて再びもとの場所へ帰る。ここは木辺がわずかにくすぶるのみ。幾たびかシャツやズボンを濡らしても、すぐ乾いてしまう。水の少なくなった防火用水槽には、すでに人がいっぱいはいってしまった。その中の女の人が「南無八幡大菩薩」と両手を合わせている。

 四方を見渡せばどこも火の海に完全に包まれている。朝は少しもなかった風が、ものすごく吹きはじめ、火焔は熱っぽい風にメラメラと大きく揺れている。はるか黄天の中に敵機の爆音、またやるのか?不思議に恐ろしくはなかったが、激しく嘔吐(おうと)、悪寒(おかん)を覚えその場に横になる。
 疲労その極に達し、人事不省(じんじふせい)になり、幾時間そこで眠ったであろうか。傍らの人が水を求め、揺り起こされる。夢遊病者のような足取りで水の出ているところまで行き、水を汲み与(あた)う。

 中国配電の女事務員は、顔の傷を心配してコンパクトを出して眺(なが)めていたが、「治りましょうか」と心配顔で尋(たず)ねる。再び、時計が焼け残っていはいしないかと全焼した局の跡へ行ってみたが、全然わからず、持参していた弁当箱が変な形となって焼け残り、中の大豆飯が黒く焦げて隅に焼きついている。

 時間は夕方五時を過ぎた頃になるであろうか、東方の火柱は少なくなり、西方に物凄い火柱が黒煙とともに天に向かって突っ立っている。任保に住んでいる中尾事務員と脱出を企(くわだ)てる。
 悪いと思ったが、傍らの死亡している西警察署員の持っていた毛布を二人で被り、灼熱(しゃくねつ)のアスファルト道路を歩く。道路の両側からは、焼けただれた家の中から苦悶(くもん)の声が聞こえる。

 完全に焼かれた広島、出勤の時と比べ、変わり果てた広島、海も山もすぐそこに見える。焼けてしまえば狭く見える広島。比治山橋を渡る。対岸の家屋はまだメラメラと燃えつづけている。途中で一中の後輩(こうはい)に会う。彼らも鶴見地区の作業に従事していたが、大半は死亡せしとのこと。

 兵器廠(しょう)の前で中尾事務員と別れる。南段原郵便局で水をもらう。幸いにも比治山東部は焼け残っている。全く不幸中の幸せである。我家は倒れ崩れている。近所の人が「お母さんはトラックに乗せられて東の方へ。相当な重傷でしたよ」と伝えてくれる。
 あっ母はまだ生きている。部屋の中の机に白いチョークで「東の方に行く、母」と書いてある。裏口には真っ黒に焼けただれたワンピースが脱ぎ捨てられている。かくも重傷で着替えていく気丈(きじょう)な母よ。

 二階にやっと上がれど何も手がつけられず、飲みたかった胃薬をやっと飲む。食欲は全くなく、ヘタヘタと椅子に座れば、立ち上がることさえ容易ならず。母を探しに、と思えど、足は動かず明日まで許せと念願す。
 隣のラジオ屋の市中四年生の子も帰ってきた。彼は広島西部の作業でかすり傷ひとつ無し。彼はすぐ米を探し、夕食の用意すれど、自分は薬を探し、手の傷にメンソレータムをつけ、あとはただ横になったまま、ようやく二階から布団、蚊帳(かや)をおろして、ガラスのかけらの飛び散っている台所を掃除し、そこに横たわる。

 夕日はすでに落ち、あたりは宵闇(よいやみ)に包まれていた。疲れた、疲れきった。

(後日談)
 母は二日後(八月八日)に、収容先の海田市国民学校で死亡。私も半年間、脱毛、下痢、口内出血等の被爆症状に苦しみました。




  1. 2005/05/27(金) 08:17:27|
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あの戦争さえなかったら

あの戦争さえなかったら

    林田ヒズカ
                  (当時二十七才 主婦)

 わたしは長崎市五番町で被爆しました。身内では、あの時は元気なように見えましたが、二~三年後に主人の兄夫婦が他界しました。

 あの日から五十一年にもなるのに、未だ体調が悪い。毎月、慈恵医大に診察あるいはCTに、超音波、と繰り返しています。この年になり、苦しんで、苦しんでいます。
昨年暮にも入院しました。他人様には想像もつかない病気ばかり。あの日がなかったら、まだ健康でいられたはずと悲しいおもいがします。
 今、病状は狭心症と肝硬変がありますと言い渡されました。この二つの大きな手術をしているので納得はしていますが、あの戦争さえなかったら、まだ元気だったろうと、くやしさで涙も出ません。

 どんなことがあっても、原爆だけは、のちの世の子どもたちのためにも、決してやってはならない。どうか命ある限り、どんなに苦しくてもがんばっていこうではありませんか。乱筆にて、目もよく見えなくて上手に書くことができません。




  1. 2005/05/27(金) 08:16:18|
  2. 長崎|
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馬鹿野郎!戦争とはこんなもんだ!

馬鹿野郎!戦争とはこんなもんだ!


恩藤 知典(故人)
      (当時16才 広島高等師範学生)

 原爆投下当時、安芸郡府中町にあった東洋工業の社屋内(三階)におりました。九時三十分に東洋工業の正門前を出発、徒歩(とほ)で東千田町の高師に急行、学友の救出に向かいました。

 八月六日の午後、東千田町や平野町で被爆し亡くなった方の遺体を、友人と御幸橋の西詰めにあった藤田組の倉庫前に運ぶ作業にかり出されました。死体処理というのが適切な表現、その作業にはその後当分の間、夢に見てうなされるものでした。

 息があるのかどうか手をあてて確かめるのではなく、私たちを指揮した将校は、長靴のあぶみを人体に強く当て、反応がなければ死体とし、私たちに手かぎをぶちこんで、トラックに放り込め、というのでした。あまりにも残酷なので命令に従いませんでしたら、
 ”馬鹿野郎! 戦争とはこんなもんだ!”と一喝(いっかつ)され、突き飛ばされました。 戦争は理性も憐れみももぎとるようです。

 八月六日の午後から七日の夕方まで爆心地から一・五キロ以内で作業したため、残留放射能の影響からか、九月末頃までは、白血球が少々減り(五〇〇〇~六〇〇〇)、体がだるく、微熱(びねつ)が続きました。七日に一緒に作業した級友が数名亡くなりましたのは、やはりショックでした。

 現在、この三年間にわたってヨーロッパ諸国の高校生が放射能についてよく学んでいる実態を知る機会がありました。

 わが国では原子力については臭いものにふたをする式の指導になっているようです。多くの犠牲を出したわが国こそ、くわしく公正に原子力について学ぶべきでしょう。




  1. 2005/05/27(金) 08:15:16|
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わたしの被爆の体験と証言

わたしの被爆の体験と証言

                 鷺沢 誠
(当時二十八才、 召集軍人衛生軍曹)

 昭和十九年十二月第一回の召集解除に続いて、二十年四月第二回の臨時召集により、広島船舶砲兵団司令部衛生中隊に転属、比治山の木造小学校に宿営、
 当日八月六日朝礼、中隊長訓示のため、全員校庭に整列中、防空監視哨の「敵機来襲」の声とかすかな爆音にて一斉に天空を見上げたところ、
 一瞬、顔面をたたかれたような強い衝撃を受け、その場に伏せたところ、一面校舎倒壊による砂塵(さじん)もうもう一寸(いっすん)先も見えず、約一時間後、ようやく見通しがきくようになり、集合したが、
皆軍帽はとばされ、軍帽より露出箇所の毛髪は焼け、顔面ヒリヒリ痛く、
 はじめは、近くに焼夷弾(しょういだん)投下かと思いましたが、近くに火災なく、遠く空は真黒くキノコ雲見え、異常を感じ、
 命令により、各自持参の薬のうより亜鉛華オフノフ油を顔面に塗布(とふ)、傷みを和らげ、倒壊宿舎内の戦友の救出および全員各班に分かれ、あるだけの薬品、テント持参で、医療活動に従事いたしました。

 当時、軍人および一般男性は帽子、巻脚絆(まききゃはん)に身の防護は比較的整っていましたが、当日まで広島には一発の爆弾も落とされてなく、一般女性、市民は暑さのためもあり、体の露出部分が殊の外(ことのほか)被害がひどく、火傷のため、衣服は破れ、肉片はたれ下がり、目をあけておれない人も多数。
 ただ、暑さのためか、水、水と呼び、木陰へ木陰へと集まり、最後の力をふりしぼり、歩行していると言うより、はって歩いている状態の人がほとんどで、中には力つきて木陰でそのまま横たわる人も多数でした。

 また、屋内にいて火傷のない人も、倒壊木片、ガラスの破片が体中にささり、ことに幼児の痛々しい様はまさに地獄面でした。医薬品も脱脂綿、ガーゼ、包帯、赤チン、リバノール消毒液のみ、軍医の巡回なく、ただただ、消毒するのみ。
 翌日、ガーゼ交換に来る時は、もはや可能癒着の状態となり、指と指が引っ付いてしまう状態でした。

 九月四日、召集解除、復員となりました。復員時、治療に従事した時の市民の方より、薬品をさがして送ってくれるようにと頼まれたが、当時の物資不足の折、何一つ手に入らず、約束を果たせず、何より心の傷みを感じています。良薬入手可能であれば、あるいは何人かの人が助かったのではないかと、今でも何より心残りです。

 戦争は絶対さけるべき事、
 核は持たない事、
 外国よりの侵入の場合、軍事力は自衛上必要と思う。




  1. 2005/05/27(金) 08:14:01|
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私の原爆体験記

私の原爆体験記

 向井弘善 
(当時八才 広島にて被爆)
 
 あの八月六日、八才の少年を襲ったできごとは、衝撃的な体験として五十年後の今日も生々しく脳裏(のうり)に焼きついている。

 当時国民学校三年生だった私は、疎開先(安佐郡伴村、現広島市安佐区、沼田町大字伴)で近所の友だちの家の庭先にいた。

 一瞬、広島市街の方角から目も眩(くら)むばかりの閃光が光った。閃光を真正面から受けた形となり、眼底検査のフラッシュを浴びた直後のように、目の前が暗くなった。

 同時に、半袖半ズボンの露出した皮膚に直接当った光は、暖かいというより熱いという感触であった。
何があったのか、考える間もなく、”ドドーン”という強烈な爆音がひびき、友だちの家の天井が軋(きし)み、瓦がずれ、壁土の埃が舞うのをみて、近くに爆弾が落ちたに違いないと直感し、どこか安全な所へ避難しなければ、と伏せた身体をおこしかけたとき、”防空壕へ避難しろ”という大人の人の叫び声が聞こえた。

 山腹に横穴を堀っただけの防空壕までそれほどの距離(きょり)はなかったが、道すがら眺める東南の空には「きのこ雲」がものすごい勢いで広がっていた。

 しばらくして、防空壕を出た時に、雲ひとつない快晴の青空の跡形もなく、空一面低くたれこめた悪夢(あくむ)のような黒雲に覆いつくされていた。
風はなかったはずなのに、生暖かい風が舞っている。上空はかなりの強風らしく、広島市街で巻き上げられたと思われるボロ布、紙屑(かみくず0、木切れなど、あらゆるものが舞い降りてきた。

 いずれも半焼けまたは灰状のもので、中にはかなりの大きなものも混じっており、先ほどの閃光や爆音のすごさから見ても、異常な事態であることは察しられるが、広島がどうなっているかは分からなかった。果たしてどれくらい空を見上げて空想をめぐらしていたことか、ポツポツと頬をぬらす水滴に気がついた。
 どうやら雨が降ってきたらしい。雨はどんどん強くなってきたが、傘(かさ)は持っていなかった。気がついてみると、白い半袖シャツに黒い斑点(はんてん)が無数についていた。これが放射能をふくんだ「黒い雨」であることは後で知った。

 訳のわからない奇妙な体験が続く中、何の情報もないままに何時間かが過ぎた頃、広島に通ずる県道沿いに異様な光景が展開されはじめた。
 広島の中心街で被爆した人たちの避難の行列が延々と続いている。
 よく見ると、髪は焼け、皮膚はただれ、中には肉塊がたれ下がっている人もいる。焦茶色に半焼け状態のぼろ布のかたまりが体に付着しているだけの人々の目は、虚(うつ)ろで、疲れ切っているようにみえた。母親の背中に背負われた赤ん坊もぐったりして泣く気力を失ったかのようである。

 この地獄のような凄惨な光景を眺めているうちに、想像もつかないできごとがヒロシマを襲っている、果たして東観音町にある家はどうなっているのか、そこにいるはずの母親は無事なのか、心配と不安が募(つの)るばかりであったが、避難者と沿道の人たちとの会話の端々(はしばし)をつなぎ合わせると、広島市は全域が壊滅状態である、広島に落とされたのは、アメリカの新型爆弾であるらしい、ということであった。

 しばらく眠れない日が続いたが、一週間近くたってようやく東観音町の家は全焼したものの、母親は無事であることがわかり、安堵(あんど)の胸をなで下ろした。
そして八月終りには、市内の焼け残った一角である、宇品港近くの借家での新しい生活が始まった。




  1. 2005/05/27(金) 08:12:44|
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ぜひ伝えておきたいあの時の光景

ぜひ伝えておきたいあの時の光景

             植野辰夫 (当時二十七才 呉商業学校専攻科)

 八月六日は、国土防衛隊(兵役ではない)の一員であり、一週間交替の明け番で我家にいた。(広島県安芸郡昭和村大字焼山)
 真夏日の開け放たれた部屋で読書中、青白い光が眼に吸い込まれ、読書を中断し、眼を強くこすった。

 内臓をえぐるようなにぶい音がしばらく続き、強風が音をたてて部屋に入り、衝立(ついたて)が吹き飛ばされた。母の声で外に出てみると、広島の上空(我家から山をはさみ十三キロ位)にピンクと紫色のキノコ雲が天に立っていた。
直感で毒ガスかもわからず、山に逃げようと判断したが、結局夕方まで雲は消えなかった気がする。

 八月六日夕方、村役場より至急広島に行くよう依頼があり、所属する国土防衛隊の一員として広島市に入る。
国土防衛隊は、安芸郡下、十六、十七才の青年で組織され、宿舎は海田市町の小学校、隊員百五十名位、任務は敵の落下傘(らっかさん)部隊が降りてきたら、竹槍で突く突撃隊(とつげきたい)で、教練のごとく訓練していた。そして広島市内の木造家屋住宅の倒壊作業であった。

 命令が出ると直ちに、村の同僚九名と徒歩(とほ)で暗い山道を、矢野--海田市、まだ暗い三時頃、小学校に着く。

 翌八月七日、小学校の廊下は人の山で教室に入れず、呻(うめ)き声でいっぱいであった。夏の朝が明けてはじめて見た光景は、全くの地獄であった。
 顔が見分けられない人、手・足などグルグル巻で血だらけの、生まれてはじめて見るむごたらしい光景であった。校庭で見るに耐えられず、震えておりました。

 負傷した将校の号令で正気に戻り、大本営跡へと向かった。最初に片付けるためか、海田市町~向洋~広島駅、それから先は熱くて進めず引き返した気がする。

 八月八日、海田市~向洋~広島駅~広島城~大本営跡、どの道を歩いたか定かでない。城の壕(ほり)に兵隊さんの頭からの死体が散見された。大理石でできている建造物は動かす事ができず、馬の死体を焼いた覚えあり。

 帰り道、福屋でパートあたりで靴音が消え、多分、八本松の練兵場よりの部隊であった。整然たる隊列で早駈(はやが)けながら、一糸乱れず、西練兵場方面へと向かっていくのを見て、頼もしいなどと感じた事を思い出す。この惨状を復旧できるのは兵隊しかいない、と思ったからか。

 八月九日~十四日、広島駅裏、東練兵場で救護活動。なぜか海軍の救護所ができており、広い草むらの練兵場から負傷者を運ぶ作業であった。

 思い出す事、
 タンカがないため、雨戸で運ぶ。四人一組。
 朝方亡くなった女の子、となりにいたおじさんが、水を飲みたいと、よく泣いたと、むなしかった。
 耳のない人、布でおおっているだけで、タンカからおろした時わかった。
 なぜか、衣類をまとっていない人が多かった。
 食欲がなくなった。

 二日目以降、慣れると、手も洗わずにおにぎりを食べた。

 神社の境内で死体を焼いた。百体位。

 東練兵場以外での作業は定かでない。作業中、空襲警報で防空壕の一番奥に飛び込んでいった。ヤケドの怖さを知ったから。

 八月十二日、暑いから水をがぶがぶ飲み、高熱が出、下痢となる。赤痢と診断され、八月十三日、田舎の避病院に入院していた。どうやってきたか、記憶にない。

 八月十八日頃か、現在の広島の地域で赤痢症状は赤痢ではなく、原子病であると発表、即退院する。
 十七才の生意気盛りで、何でも珍しいもの見たさで、世の中の出来事に興味があったが、八月七日だけは別であった。
 むごたらしい地獄を見て正視できず、早く忘れようとした気がする。同僚とも以後、その話はほとんど出てこなかった。

 しかし、東京の生活では、あの日のことが焼きついており、「広島第二高女の手記」、桜隊のテレビ、丸山定夫、大江健三郎の「広島ノート」、いつも胸をうつものばかりであった。

 今、この文を書きながら、鮮明と言ってもいい程よく記憶にあったものが思い出せなくなった。帰省して当時の同僚と記憶を辿りたいものだと思っている。

 現在は、大変ありがたいことに、放射能の被害は八月十五日~十八日の間、赤痢患者と診断され、高熱と下痢で病院生活をしただけで、今の所異常はない。母も小生と同じく八月七日から十日、広島にいた兄を探して何度も入市を重ね、六十五才で、癌で亡くなった。

 兄は爆心地より二キロの地点にいたが、(陸軍)奇跡的に助かったが、五十五才で、癌で亡くなった。当然癌体質と思われるので、検診による予防を心掛けています。

 被爆者として訴えたいこと。

 今度どの国でも核を使えば、地球は大変です。
 広島の何百倍の威力があるとか、及びもつきません。
 核の保有国よ、即時全廃して下さい。
 核の実験、すぐ止めて下さい。

 訴え方でお役に立つことがあれば、御指示下さい。




  1. 2005/05/27(金) 08:11:11|
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広島原爆体験記

広島原爆体験記

      沢田秀雄(当時二十才 歯科医)

 「こんなに永く生きさせて戴いてありがたいと思っています。」一目で被災者と知れるその女性は、持参したボトルから冷たそうな水を注いだグラスを慰霊碑の前に供えていた。

 その日私は、かもしか会五十周年の総会に出席をかねて広島平和公園を訪れたが、その時の話である。 かもしか会とは、昭和二十年四月、広島県西条町にあった海軍衛生学校歯科医見習医官第十一分隊の同期生である。
 私は知っている人にでもあったような気がして話しかけた。この近くにあったらしい陸軍の補給廠にいて被爆したらしい。崩れた家財の下敷きになり助かった人も数人いたが、それも家に戻ってほとんどが亡くなった、と語る。
 水の中に毒が入っている、そんな流言に惑わされ、「水を!」と訴える全身火傷の重傷者の請いに応えられなかった事が悔(く)やまれてならない、と話す七十六才のその人は「広島の水はこんなにおいしいですよ」と幾度(いくど)も語りかけていた。

 原爆が投下したあの日も今日のように暑い日だった。私たちは夜を徹してここで被災者の救護に当った。
 五十日間---いつも脳裏(のうり)からその惨状の地に再び訪れる事ができた私たちだが---その思いをどう表していいか分からない。よく生きていた、これが隊員の偽(いつわ)らざる感情に違いないが、個人の運命よりもっと大きな人類の宿命を考えざるを得ない。

 その運命の日八月六日は、朝早くから灼熱(しゃくねつ)の太陽が輝いていた。私たちは外科(げか)実習のため手を洗っていたが、突然、目に激しい閃光を感じ、肌に大音響と熱風の衝撃を受け、慌(あわ)てて戸外に飛び出した。
 空襲警報が鳴り、辺りは騒然(そうぜん)となった。目の前の山の上をB29が飛行し去り、その下に幾重にも広がって行く白い雲が立ち上がっている。
 青空の中をあの真っ白いキノコ雲がもくもくと上へ上へと押し合うように昇っていく。
 まさかその下で人類がはじめて体験する原爆の地獄図絵が展開されているとは思わなかったし、自分たちが残存する放射能の中で救援活動に当るとは知る由(よし)もなかった。

 白いキノコ雲は白血病の化身(けしん)だったように後日になって思った。夕方になって我々は広島に急きょ救護活動のため出動を命じられたのである。
 トラックに分乗、呉海軍病院に立ち寄り、医薬品を積み、行く手に赤く燃える西の空を見ながら、真っ暗な国道三十一号線を広島へ急ぐヘッドライトの光の中に、歩いて来る被災者の群れが浮き出る。力つきたか路上で動けない様子だ。左手の海には沈没した船の残骸(ざいがい)が黒い影を見せていた。

 四、五時間かかって炎々と燃える広島市内に入った。爆心地に近い東練兵場(れんぺいじょう)において火炎に照らされながら、徹宵被害者の救護に当った。
 夜が明けるに従い、凄(すさ)まじい惨状が目前に展開され、何と形容してよいか分からない。草木が焼け、屋根瓦(かわら)が泡立(あわだ)っている。火炎が立ちこめ、至る所に重傷者が倒れ、うめいて、炎天下に無数の死体が折り重なっていて、これが一瞬の爆撃でおきたとは信じられなかった。

 引率の分隊監事からエトワス、ノイエス(何か新しいもの)と言われた。「助けて下さい、軍医さん」。地の底から、うめくような細い声とともに、草むらから伸びた腕をつかまれる。
 その手は、原爆の熱戦でやけただれ、水泡状になっていて、すぐぬるりと上皮画むけて私の腕にまつわりついた。
 被災者は滑って、溝の中に転落し、息が絶(た)えた。持参した医薬品も次第になくなり、多数の患者を前にし、末期(まつご)の水を与える他なす術(すべ)もない。
 ただ死を前にした人の、藁(わら)にもすがりたい気持に、医師として何とか応えなくては、と思う責務感でいっぱいだった。
 燃えさかる地獄の業火(ごうか)を背に、あっちこっちで一人また一人と死んでいった。その時の光景は今でも瞼(まぶた)に焼きついている。

 午後から横川に向かった。駅前の芸備銀行に救護所を開設、診療開始。大理石のカウンターが応急の手術台になる。床の上には死傷者が足の踏場(ふみば)もないほど横たわり、阿鼻叫喚(あびきょうかん)の地獄絵でも見ているようだった。 
 戸口には朝出かけたまま行方の知れないわが子の消息を求めて夢遊病者のような姿の母親が訪ねて来る。戸外では死亡者の収容作業が始まっていた。

 夜は二階で椅子を並べて野戦法で寝、交代で当番をつとめた。翌日は夕方他の分隊と交代し、帰校した。原爆被災地にいち早く乗り込み、最初に原爆被災者の救援活動を組織的に行ったのは、呉海軍鎮守(ちんじゅ)府から急きょ派遣された、我々賀茂海軍衛生学校の歯科医見習医官(?)だったことはあまり知られていない。

 戦争の悲惨な体験者は急速に減っていく。戦争の悲惨さは語られなければならない。現実は次第に風化していく。そして歴史は繰り返される。そう考えると文学者の仕事は大きい。
 実はこの文は、名作「足摺岬(あしずりみさき)」や「鉛心中」を書かれた文豪、田宮虎彦氏を偲(しの)ぶ記として、過酷な運命に流される市井(しせい)の人の生しか描かず、権力を憎み、平和を愛した氏の早世を惜しんで、以前に書いたものです。

 <平和は尊いもので、皆で支えあわなければ、命は弱いものです。皆で助け合わなければ、戦争は酷(むご)いものです。支えあいも助け合いも無くしてしまいますから>

 横浜市の大通り公園に建てられた平和公園碑に遺された池谷栄一氏の言葉ですが、その由来(ゆらい)を紹介して拙(つたな)い文を了(おわ)りにしたい。
 横浜は沖縄同様、戦後の犠牲者である。かつての居留地、西洋文化の門があったこの地も、戦災を受け廃虚(はいきょ)となった。戦後は占領軍を東京に入れるな、という政府の要請があり、ペリーを江戸に入れるな、という幕府の方針と似る。 
 横浜はいつも東京の代償になっている、という不満が、横浜市民にある。
 占領箇所も多く、他の都市に比べ復興の遅れた横浜だが、その分じっくり計画が練(ね)られ、金沢地区の埋め立て、港北ニュータウン、高速道路、高速鉄道、ベイ・ブリッジ等も市民参加で、東京と違った街づくりが進められた。
 川を埋め、地下鉄を通し、その上は広々とした大通公園となった。そこに平和記念碑ができた。

 これをつくった池谷栄一氏は、碑に自分たちが生きた時代に痛恨(つうこん)をこめて平和を訴えている。遺された遺族たちの心の傷を癒(いや)すことはできない。彼はこの碑のため、八年の歳月をかけた。それは戦争の惨禍を語りつぐための大きな礎石(そせき)だった。
 記念碑が建った年は、開戦五十年に当って、真珠湾(しんじゅわん)では記念行事が開かれた。旧津山藩の末裔(まつえい)である彼は、武士の血筋を引くものの一人として、羽織袴(はおりはかま)で土下座(どげざ)をして米国人に謝りたかった。

 同時に、アメリカ人も日本に対し人類史上始めての原爆投下の残虐(ざんぎゃく)行為を知ってほしかった。
 病のため、それは果たせなかったが、それでニューヨークタイムズに意見広告を出した。日米両国民の真の和解を願うと書いている。

 スタンフォード大学の教科書に、太平洋をはさむ両国の歴史的経過とともに、文化の相互影響を取り上げ、パール・ハーバー、ヒロシマ、占領の章がある。

 最後の章には池谷氏が書いた、ニューヨークタイムズ紙の広告がそのまま掲載(けいさい)され、対頁にはアメリカ市民団体による「原爆使用四十七年目」の日本国民への謝罪文があった。(終り)




  1. 2005/05/27(金) 08:09:19|
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独りだけの死は怖いよ 広島忌

独りだけの死は怖いよ 広島忌

池辺よみこ
(当時二十九歳 東芝広島支店勤務)

 当時西宝町に下宿し、会社が己斐(こい)方面に疎開していた。あの八月六日、比治山橋を渡り宇品行きの電車に乗り、専売局で爆心地を通る己斐行に乗りかえた。千田町の日赤病院の前あたりで電車は急停車した。

 背中に熱湯を浴びたようで、音は全然聞こえず、とたんに両耳が鳴りだした。もし光が顔に当たっていたらあきめくらになっていただろう。
 千田町から大河方面に逃げる途中、機銃掃射があるというので、比治山斜面に避難、そこには中学二年男子が三人、赤裸で皮膚がケサゴロモのようにたれ、マツゲ眉もなく生きた埴輪(はにわ)そのものであった。
 広島という大きな窯(かま)の中で生きたまま焼かれたのである。

 戦後は数年、白血球のバランスが悪く、耳から採血したとき止まらなくなったこともある。目が白内障になり、それは三十代からである。両方手術したが、その頃、水晶体(の手術ができるの?)は日本では三ケ所くらいだった。
 もちろん入れてはくれない。遠視のため、遠近二つの分厚い眼鏡である。正面しか見えないので、危なくて杖を使用している。被爆者の子女の結婚をとやかく言われたが、私は意には介さなかった。放射能の問題だからである。科学的ではないと思ったから。

 スリップの肩のひものあとが、数年残った。耳鳴りは半年続いた。

 科学的ではないと言った私が科学に強いわけではない。
 若い人に言いたいことは、科学的にものごとを考えていただきたい。恋愛も科学的にしたら安心して楽しいではあるまいか。

 被爆者も老いてゆくばかり、二~三人でも呼んでいただければ、遠くでも「話」にいきます。

 スミソニアンの原爆の展示を、元軍人たちが反対しているのは知的ではない。無垢(むく)の民を何十万も焼き殺すとは許せない。筆舌(ひつぜつ)では尽くせない。


 夕凪(ゆうな)ぎて 広島は川、海を染め





  1. 2005/05/27(金) 07:23:17|
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思い出すたびに涙・・・

思い出すたびに涙・・・

中野フミヨ
  (当時十才 長崎にて被爆)
 
 あの時、昭和二十年八月九日午前十一時二分、小学校五年生だった私は、一才の弟のお守り役で、静かな午前の夏休み、昼食にはあと少しの時を、弟の昼寝に添い寝していた時でした。

 「パッ!!」突然に閃光が走り、一瞬目をうばわれたが、真っ白いただ中におりました。「何が起こったのか?」素早く私は弟を背中にくくりつけました。くくりつけるなんて身についていたのか、ただ夢中で、そして、余りの驚きに弟を背に、ぼう然と立ちつくしていました。

 その時、大声で私を呼びながらかけよる母の姿を見て、へたへたとその場に座り込みました。恐らく一生に一度でしょうね、腰をぬかすという経験を致しました。

 「何ばしょっと一早う防空壕へ!」と母に一喝され、玄関に引きずり出されて、母は七才の妹を探しに、私は町内の防空壕へとひた走りました。つんのめり、つんのめり、近いはずの防空壕が何と遠く感じたことか。防空壕の中は蜂の巣をつついたようで、ワイワイ、ガヤガヤ、誰もが爆風で石が飛んできたのを、自宅に爆弾が落ちたと思っていたようです。

 昼間なのに空が黒く感じて、夜には向こうの空は赤く染まり、またこれから何が起きるのか、不安と恐ろしさでいっぱいでした。父母たちは夜になっても帰らない姉の心配をしていました。
 
 二日後、爆心地に近い浦上茂里町の兵器工場の給与課(城山小学校にあった分室)に勤務していた女学校出たての姉が、黒く黒く焼けただれ、よれよれになって帰ってきました。町内の防空壕まで二キロの道程を「母さんに会いたくて…」と息も絶え絶えに言って姉は、母の腕の中に倒れかかったそうです。

 私が目にした姉の髪の毛は、血のりで逆立ち、背中には大小数えきれないガラスの破片がつきささり、服はボロボロに形をなさず皮膚に張りつき、優しくてきれいだったあの姉の姿が。
 あの時の子ども心には、とてもこわくて…(それから後何年間も夢の中で姉のその姿にうなされました)

 傷ついた姉の背中にはガラスがキラキラと光っていて、それを父はピンセットで歯をくいしばり、黙々と一個抜いては赤チンをぬり、そのたびに姉は弱々しく顔をゆがめていました。
 父と姉のそれは何日間か続きました。抜いても抜いてもガラスの破片はとりきれなくて…

 八月十八日、被爆から九日目、姉は母に「母さん抱いて…」とつぶやいて皆の見守る中、母に抱かれて他界致しました。

 私の家は爆心地より三・五キロの新中川町という所で、伊良林小学校を見おろせる高さの(学校のすぐ側)石垣の上の家でしたが、その小学校には、絶え間なく負傷者の人たちが運び込まれては亡くなっていきました。

 運動場に掘ってある防空壕は、死体焼場と化しました。校舎からはたくさんの負傷者の人たちの、声にならないうめき声が、「ウォーン、ウォーン」とにぶく、切れ間なくひびき渡り、我が家に聞こえてきました。

 そうです。五十年経った今もなお、あの時の事は、きっとこれからも生涯、一時も忘れることはございませんでしょう。

 最後にどんなに言葉をつくしても万分の一も書き表せない、自分自身が歯がゆく、もどかしく思えて仕方がありません。

 「どうして戦争するの?なぜ?」
 あの時から私の心はこう叫んでいます。

 一日も早く被爆体験を書かねばと、思えば思うほど、あの日の事が思い出されて、体がふるえる思いを致しておりました。ペンをとっては涙が流れて、途中まで書いては破り、亡姉や、その姉を追うように十年もしない内に若くして母も亡くなり、いろんな出来事が頭の中をかけめぐりますが、言葉にすることは何と難(むずか)しいことでしょう。書きたいことはいっぱいあるのに、やっとこれだけ書きました。

 亡姉の分まで、亡母の分まで、私事ではありますが、しっかり生きて行きたいと思っております。




  1. 2005/05/27(金) 07:22:07|
  2. 長崎|
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決して忘れることのできないこと、訴えたいこと

決して忘れることのできないこと、訴えたいこと


吉元トキ子
(当時二十三才、広島市翠(みどり?)町にて被爆)


 当時広島文理科大学(現広島大学)数学教室科研究傭員として働いていた。被爆した妹は昭和二十一年三月に、母は昭和四十六年二月に死亡した。

 右半身に多数受けた傷からの出血がひどく、安静療養中だった妹が、手押し車で陸軍共済病院につれていってくれたが、そこはこの世にあるべくもない地獄だった。髪はこげ、全身焼けて赤むけになった人でいっぱい。
 「助けて、水を!」と訴え、うめいていた。市の中心部の家屋取こわしに動員されていた中学一~二年生が、次から次へと支えられながら入って来た。目の潰(つぶ)れた子、全身焼かれた無惨(むざん)な子どもたち。

 私を介抱(かいほう)してくれた妹は、翌年三月、二十一才で生命つき、中心部の身内は下敷きとなって、炎に焼かれて死んだ。その人たちとともに、中学生の姿は五十二年経っても忘れられない。

 二度と子どもたちの上に原爆が落ちてはならない。後に被爆者運動に参加する私の原点。昭和二十九年まで住み、放置され、流言に苦しむ被爆者の必死の姿を見、自分もその一人だった。

 アメリカは被爆について書くことも、語ることも禁止し、日本政府はそれに同調、死ぬ者はすでに死に、生き残った者は非被爆者と同じ健常と言ったが、実際には後遺症(こういしょう)が続いた。かくされた事は異常な差別を生む。子どもへの心配、就職、結婚にも影響が及んだ。

 今世紀は核兵器廃絶に大きく動いたが、未だに口を閉ざしている被爆者は、深刻な苦しみの時期があったのだと思う。私にも口を閉ざした時期があった。口を閉ざしている被爆者が今もあるのは、初期に被爆の実相、放射線の影響をかくしたアメリカ、日本政府に罪があると思う。

 あの日被爆した同じ立場にあるというところに身をおいて、運動への理解、書き残し、語りつぎを働きかけたい。
 被爆者でない広島・長崎市長の、国際司法裁判所での証言は、世界中に大きな感動を呼んだ。
 核兵器のない二十一世紀をめざして、次代の人、子どもたちに体験を継承してもらうことが、一番大切な、生き残って生命の少なくなったわたしたちの使命だと思う。




  1. 2005/05/27(金) 07:20:19|
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わたしの語りつづけたいこと--軍国少年、広島、戦後五十年

わたしの語りつづけたいこと

--軍国少年、広島、戦後五十年





寺沢 茂(被爆時十八才、陸軍船舶兵)

国をあげての軍国主義教育は恐ろしい

 1933年~1941年、この八年間はわたしの小学校時代、徹底した軍国主義の教育の下、お国のため、天皇陛下のためにと、ほんとうにまじめな軍国少年に育てられました。

 小学校入学の二年前に満州事変が始まり、四年生の時には中国への全面戦争へ突入していました。十四才で小学校高等科を卒(お)え、直ちに軍需工場へ集団就職。生まれて初めて郷里の新潟をはなれ、当時日本一長いと言われた清水トンネルをこえ、群馬県にあった海軍機製作工場で働くことになりました。(この十二月、太平洋戦争突入)

 ここで三年間働き、もっとお国のために身を捧げる所はないかと、陸軍船舶兵特別幹部候補生に志願(なぜこの兵種をえらんだか、さだかでない)、小豆島の部隊に入り、広島鯛尾の整備隊に転属、そして江田島幸浦の水上特別攻撃隊の訓練基地で八月六日をむかえることになったのです。

広島でどんな体験をしたか

 あの日の午前八時十五分、じりじりと夏の暑い日の照りつける朝でした。わたしはバラック建ての兵舎の中で訓練に出る準備中、強烈なピカを受けたのでした。まさに百雷そのもの、何秒かおいてドーンという轟音、宇宙全体がはりさけるのではないか、と思う程の恐ろしい炸裂(さくれつ)音でした。激しい爆風で兵舎は傾き、とっさに土間に伏せをしていたわたしの背中には出入口の板戸がふきとばされ、たたきつけられていました。

 しばらくして、わたしたちは恐る恐る兵舎の外に出てみました。黒か褐色か異様な煙とも雲ともつかぬものが、むくむくと天へ盛り上がっていました。
向いの似島の岬の先にあった弾薬庫が爆発したのではないか、とのうわさがとびかいました。時間が経(た)つにつれ、あのキノコ雲の下からチラチラ火の手の上がっているのが見えてきました。”広島がやられた!”とわかりました。それにしても米軍機がやってきた気配はありません。警戒警報も解除されていたのです。何にやられたのか?

 およそ三時間後、出動命令がありました。スコップ、テント、水筒、若干(じゃっかん)のお米、はんごう、ボロ手袋などをそれぞれ持参、部隊所有の大発(だいはつ=かつての敵前上陸用舟艇(せんてい))に乗り込み、約三十分後、宇品の桟橋(さんばし)に到着、ここであっと息をのむ生き地獄に出あったのでした。
 油と埃(ほこり)で汚れ、真夏の太陽の照りつける桟橋に、身動きのできない重傷者が。衣服はボロボロ、髪は逆立ち、火傷にやられた皮膚はずるむけ、無惨な姿でずらり寝かされていました。爆心地方面から、臨時の治療所にあてられた似島(ここは古くから陸軍検疫(けんえき)所がおかれていた)へ運ばれていくところだったのです。すでにこときれていた人も多く、痛ましい限りでした。

 わたしたちは北上し、「高等工業」(現広島大学)など名前の聞こえてくる付近の半壊家屋内に荷物をおろし、重傷者の救出活動に入ったのです。わたし自身、広島出身者ではなく、広島市内には以前たった二回入ったのみ、地理的位置はさっぱりわかりません。
二人一組となってありあわせの材料を担架にして、動けなくなっている重傷者(爆心地から避難してきた?)を、トラックの行き来する地点まで運び出す作業でした。”兵隊さーん、水”という悲痛な叫び声、抱え上げた重傷者の手、足、首筋、肩口がひどい火傷でやられ、つかんだわたしの手が骨まで届くというむごさ、せっかく救出してあげたのに、次々と息をひきとっていく、忘れようとしても忘れることのできない惨状でした。

 八月八日頃からか、救出活動をひとまずきりあげ、御幸(みゆき)橋を渡り爆心地に入りました。ここで犠牲者の遺体を火葬する作業に入ったのです。すっかり焼野原、死の街になってしまった広島、どこの地点か、さだかではありません。

女専跡、県病院、池、太田川沿岸地域だったことは確かですが、とにかく、わたしたちは十人ほどが一組となり、持参したスコップで巾、深さ一メートル、長さ二~三メートルの壕を掘り、焼けのこりの木片をあつめ、遺体を並べ、石油をかけて焼いたのです。はじめは一体ずつていねいに焼いていったのですが、何しろおびただしい数です。次第に遺体は人間でなく、物と考えるようになっていきました。
五体、十体と火の中に投げ込み焼いていったのです。強烈な死臭に苦しみ、手拭(ぬぐ)いでマスクをし、ボロ手袋で遺体を抱えあげていたのに、次第に死臭も苦にならなくなり、ボロ手袋も不要になっていたのです。

 夜おそく一日の作業が終ると、遺体が燃えている火の近くで、死んだように眠りました。朝をむかえます。きれいなお骨に焼き上がっているはずはありません。髪や手足、内臓など残ったままの遺骨(いこつ)をスコップで穴を掘り、スコップですくい、仮埋葬をしたのです。いったいどの位の犠牲者を火葬にしたのか、作業は十四日まで続けたのですが、記憶はありません。相当多数(少なくとも二~三百体以上か)にのぼったと思うのです。

 また、わたしたちの火葬した犠牲者の多くが、中学生や女学生(現在の高校生)だったこと、名前の判る者(当時は胸のところに住所、氏名、血液型を記した布をぬいつけていた)はきちんとメモし、不明の者は性別など記録を残しておいたことなど、書いておきたいと思います。(帰隊後、上司に提出)

 江田島幸浦へ帰ったのは確か八月十四日だったと思います。翌八月十五日正午、部隊全員営庭に集合がかかりました。「玉音放送」があるというのです。

“全軍重大な時期だ、がんばれ”と言われるのかと思いました。ラジオは雑音が多く何のことかよくわかりません。解散後しばらくして、日本が負けたこと、そのうちに出身地に帰してもらえることが伝わってきました。まわりの戦友たちの多くは、くやしさはなく、ホッとしたきもちでした。郷里の新潟へ復員したのは九月中旬頃でした。

戦後五十年、どう生きてきたか

 わたしは子どもの頃から、歴史物語を読んだり聞いたりすることが大好きでした。戦前のことですから戦記物が中心のわけですが、とくに明治以降の日本のかかわった戦争が、聖戦や正義のものではなく、侵略戦争であり、自分の信じこんでいたイメージが次々とくずれていったときには、ほんとうにショックでした。

 ”歴史の真実が知りたい”、そんな思いで周囲の反対を押し切って、1947年東京へやってきました。まだ戦争のきずあとが色濃く残り、生活不安いっぱいの状態でした。

 上京後の一年間はまず、ねらいをつけていたある私大の夜間部への受験準備、生活していくための仕事の確保(親からは、農家ですからお米だけは十分に提供してもらう)でした。ニコヨン、かつぎ屋など、わたしの人生の中でもっとも苦労の多い一年間でした。1953年、ぶじにある私大の文学部史学科を卒業、都内の公立中学校の社会科教師になることができました。

 わたしが被爆体験を教育実践の中で語りはじめたのは二年目、担任クラスをもつようになってからでした。子どもたちは、授業の中でもっとも目を輝かし、真剣に耳を傾けてくれました。

 たしか1956年頃だったと思うのですが、広島市立幟(のぼり?)町中学校の生徒諸君が、原爆病で亡くなった級友の佐々木禎子さんのために、モニュメントをつくる資金カンパを全国に訴えていることを知りました。さっそく、わたしは授業に出ている全クラスの子どもたちに授業の中で話し、若干(じゃっかん)のカンパを送りました。
おどろいたことに、このあと、一~二年の間に、美しい「原爆の子像」が完成し、映画「千羽鶴」がつくられ、全国各地で上映されることになりました。わたしも同じ学年の教師たちに話しかけ、自由ヶ丘の映画館を早朝借り切って鑑賞しました。次にこの映画をみた子どもの感想の一部を紹介しておきます。
  
 「とても元気のよい”さあちゃん”といわれる一少女はクラスの人気者である。彼女は爆心地から一キロばかりのところにいたのだが、かすり傷ひとつうけなかったのに、ある日病人となる。

それが原爆病だとわかった時、級友はみんなびっくりしてお見舞いにいく。その度に白血球はふえていき、鶴を折った甲斐(かい)もなく死んでしまう。級友たちはさあちゃんのため、原爆で死んでいった多くの子どもたちのためにと、ついに鶴を空高く捧(ささ)げた”原爆の子の像”をつくりあげた。わたしたちは像をつくるための協力ができなかったことを残念に思う。さあちゃんのクラスがよく団結しているのにも感心した。
--中略--原爆が落ち、戦争が終って十三年たった今でも、原爆症で死亡の新聞記事が時々見受けられる。このような恐ろしいことを世界の人々は知っているのだろうか。日本は(原爆の)一番の被害国だ、被害者は外国へ行って訴えてほしい。外国の人も、つよく原爆に反対するだろう。」
              (瀬田中学校文集「瀬音」より)

 この感想を書いてくれた当時中学二年生の女の子も、1977年現在すでに五十才をこえているはず。この子たちの二年上のみなさんがカンパを広島へ送ったのでした。

 わたしは昨年三月で四十二年間の教師生活を終りました。わたしが授業をうけもったすべての子どもたちに、体験を語りついできました。そして小学生にも高校生にも、一般社会人の方々にも、要請があれば核廃絶への願いをこめ、戦中体験を語りつづけてきました。

 1995年十一月には、日本被団協の代表としてハーグの国際司法裁判所で、核兵器は国際法に違反するか否かをめぐって、とくに日本代表の平岡・広島、伊藤・長崎市長を激励もし、感動的な陳述を傍聴してきました。

 八ヶ月後に「核兵器は一般的には国際法に違反する」との勧告的意見(判決)が出されました。少々不満は出されたものの、今後の核廃絶運動を大きく励ますものであることは間違いないところです。わたしたち被爆者の「眼の玉の黒いうちに核兵器が完全に廃棄」されることを願わずにはおられません。




  1. 2005/05/27(金) 07:17:46|
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証言集を刊行するにあたって

未来への伝言



町田市に住むヒロシマ・ナガサキの
被爆者の証言



証言集を刊行するにあたって

                    町田市原爆被害者の会(町友会)
                                会長 篠原平太郎

 広島、長崎に原爆が投下されてから五十三年、歳月の流れと共に、日本人の脳裏から核兵器の恐ろしさが次第に過去のものとなり、原爆を知らない世代が国民の多数を占めるようになって来ました。

 現在地球上には、世界の人類を何回も殺戮(さつりく)できる、大量の核兵器が存在しています。最近、インド、パキスタンのように、世論を無視して核実験を強行する国もあります。

 戦争が終わり、平和が回復して半世紀以上過ぎても、今なお多くの被爆者が原爆後遺症に怯(おび)え苦しんでいます。原爆が人体に与える影響についても、現在は何一つ解明されていません。

 二度と広島・長崎があってはいけないという思いは、被爆者だけでなく人類共通の願いであると思います。被爆者は永年の間、核兵器廃絶と世界の恒久平和を願い、悲痛な思いで世に訴えて来ました。しかし残念ながら未だに核兵器のない平和は、実現しませんでした。

 私たちの町田市にも、三百五十数人の被爆者が住んでいます。会員の中には、核障害と高齢のために、年々二人、三人と世を去って行きます。

 二度とあってはならないとの思いで「未来への伝言」として、現在及び後世代の方々に伝えたい、書き残したい、こうする事が生き残った被爆者としての証しであり責務でもあると考え、証言集を刊行致しました。

 平和を願う被爆者の心中をお察し願い、若い世代に知って欲しい、語り継いで戴ければ幸いに思います。

 最後に、証言刊行について町田市の格段の援助により発行する事が出来ました。厚くお礼申し上げます。






  1. 2005/05/27(金) 07:14:11|
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神戸さん、篠原さんを囲んで被爆体験を語る—

神戸さん、篠原さんを囲んで被爆体験を語る 
司会 大石洋子

司会進行(大石)
 初めて対談形式をとりましたので、うまく被爆者のお話が伝われば、と思います。篠原さんは現在七十三才、当時軍人であり、神戸さんは当時七才の少女の時の体験です。

 お二人は当時別の所で八月六日、八月十五日を迎えられたと思いますが、その直後どんな生活をされたかをお聞きしたいと思います。篠原さんはかなり爆心地に近いところにいらしたそうですけど。

篠原
 ただ今紹介にあずかりました篠原です。私は兵隊であり、東京にいましたが、新しく船舶兵というのができるということで、広島にいきました。昭和二十年の七月でした。

 私の参ったところは、広島の比治山のふもとの南町でした。そこは爆心地から一・八キロの地点でした。そこの通信隊に参りまして、新しく船舶通信隊を結成しました。そして南方に行く予定でしたが、戦局がひどくなり、行けなくなりました。

 八月六日は暑い日でした。私は兵舎の中に寝ていました。前日の五日は一晩中空襲警報の鳴りっぱなしで、市民も軍人もろくろく寝ないで表に立っていたのです。翌朝は解除になり、食事や仮眠をしようとしていたのです。そこをねらわれた訳です。

 私は日中戦争の頃から爆弾や実戦の経験はあったのですが、この日の経験は全く今までと違っていました。

 それは、目に感じた光は、黄色っぽい赤いもので、目をさすようでしたので、一瞬目がつぶれたと思いました。

 それと同時に、ドーンと大きな音が響きました。光と音と同時に、私のいた兵舎はつぶれて、私はその下敷きになりました。その後しばらく私は意識を失っていました。記憶をとりもどしたのは、午後二時か三時頃だったと思います。

 その後何があったのか、私の人生の中でとぎれた部分です。
 その後、兵舎から抜け出し、広島の郊外の仁保というところに避難しました。同じ隊の動ける兵隊をつれて、小学校までいきました。避難する人たちが道路にあふれ、ある方向に向かっていくのですが、その姿は、体は焼かれ、腕のあたりは水ぶくれになり、化けもの同然で、前か後ろかよくわかりません。

 助けることもできなくて、自分たちが避難するのが精一杯でした。まわりの家々もほとんど焼けて、避難した小学校も屋根瓦は吹き飛ばされ、柱が少し残っている程度でした。何もない片すみに軍人や市民が何百人もそこに落ち着いたのです。

 その時、浅い傷ですが、数十ケ所流血していました。これが私のその時の状況です。

大石
 どうもありがとうございました。次、神戸さんはいかがだったでしょうか。

神戸
 こんばんは、神戸美和子です。私は八月六日の朝は広島の家の中にいました。ふっと外をみた瞬間、ものすごい光がさしました。その色は赤紫色だったと思います。頭の上から覆(おお)いかぶさるように光ったのです。
あっと思った瞬間、ドーンとお腹に響(ひび)く音がして、それと同時に私の前にあった障子(しょうじ)、ガラスがこわれていて、ふっと気がつくとそのガラスの破片が私の体にささっていました。
 母が外からものすごい勢いでかけこんできて、
「美和子!」
「おかあちゃん、ここ!」
 外に出た時、ちょうど原爆雲が空へ舞い上がたていくところで、大きな真っ黒な煙の柱がゴーと空にひきこまれていく感じでした。
「恐ろしい」と私がいうと、母が
「恐ろしいことになったね。新型爆弾が落ちたんじゃけん、あんた、しっかりしんさい」
 と言いました。私のところは爆心地から四キロほど離れていましたので、焼けることはなかったのです。

 逃げるすべを失った私たちは、土手の下にもぐりこんで、そこには体にふれるとかぶれるハゼの木がありましたが、空から敵が攻めてきても大丈夫なようにもぐりこみました。でも、あまり体から血が流れて来るので、そこにあった赤チンとボロ布でつくった三角巾(きん)で血止めをしました。

 どの位時間が経ったのか、広島の上空が真っ暗になってきました。
「夕立になったら困るね」
 と母と話していると、近くにいた人が私たちに話しかけてきました。その女の人は背中に赤ん坊を背負っていたのですが、
 「私の赤ん坊をみて下さい」
 赤ん坊は死んでいました。
 「背中の赤ちゃんは死んでいますよ」
 それを聞いた母親は
 「じゃあ、この子を預かっていて下さい。もう一人家に残っていますので助けてきます」
 こういう時の人間の心理はどうでしょう。頭の中はパニック状態です。
 「いいえ、この子は預かれません」
 「いいえ、おいていきます」 
 という問答を繰り返していたようですが、私はその子がどうなったか覚えておりません。逃げて来る人たちもたくさんいました。
 その日は落下傘(らっかさん)にくっついて原爆は落ちてきた様です。
 「落下傘!」
 と言ってそれを見た人は、顔から火傷をしました。光のあたった部分がすべてケロイドになっていたようです。

 広島の町はその日から何日間も、空を焦(こ)がすように夜も昼も燃え上がっていました。本当に恐ろしい!恐ろしい!と思ったのが子ども心です。私の家のすぐそばにぶどう畑があったのですが、その下にカヤをつって何日間も寝ていました。
なぜかというと、命からがら、食べるものもないのでぶどうを盗みに来る人たちがいる訳です。ぶどうを盗まれては困るので、ドロボーの番をするために、私と母はその中に寝ることになったのです。そんなことですから逃げてきた人たちに、ぶどうを一房あげたいけれど、あげられないと母は言っていました。本当に生と死の境でした。

 前日まで広島の市街地は、建物疎開を行っていました。私たちも町内の当番で、モンペをはいて、たくさんの木を運んだりしていました。一日前まで、母と私は広島市内のデパートのそばに建物疎開をしていたので、一日違えば、当然私たちは骨までなくなって、助からなかったでしょう。そういう状況でした。


大石
 どうもありがとうございました。ここに出席している方は、先ほどの中村里美さん、それと三浦さんとおっしゃいまして、山崎団地の自治会の役員をなさった方、フロアを代表して出席されています。
 では、篠原さん、軍人として、そのご被爆されて、どういうご苦労があったか、被爆者としてその後の生活について話して下さい。

篠原
 仁保の小学校では、軍人や一般市民の方が何百名か負傷していましたが、そのほとんどが動けない状況で生きていました。その人たちが毎日死んでいくのです。

 原爆で焼かれた人たちは、最初は赤くただれた形なのですが、日がたつにつれて黒くなって肉がとけて流れ出し、えぐられた状態です。
 夏ですからそこへウジがわいてボロボロ落ちていくわけです。そして皮膚にあずき色の斑点ができて、髪の毛がぬけて、鼻血が出ていくと、その人は死んでいくのです。

 仁保の小学校では、指揮をとる人がいませんので、私が指揮をとることになりました。毎日何十名という人が死んでいきます。小学校の裏の畑に死体を運んでいって、枯れ木といっしょに死体を焼きました。それが毎日の仕事になりました。

 約一ヶ月間、私は指揮をしてきましたが、軍人ですので、その後仕事をする援助部隊に指揮をゆずりまして、広島の市内に帰ってきました。比治山に天幕をはって残った兵隊と生活していました。

 東京には翌年の一月に帰りましたが、人間いろいろ経験したものですから、何をしたらよいのか、毎日悶々(もんもん)と暮らしていました。

 でも、これではいけない、と思い、学校の教科書を作っている学校図書という会社に入り、三十年近くつとめて停年となりました。その間に放射能による障害が出まして、二十七年程前から脊髄(せきずい)をやられ、今でもコルセットをして生活しています。あずき色の斑点が出て、髪の毛もぬけてきましたが、いまだに生命力があるのか、生きています。

大石
 神戸さんはちょうど思春の時被爆者としてつらい思いをした数々の経験があると思いますが、そのお話とか、看護婦になられるに当って、お仕事を選ばれる時に、被爆なさったということでどういう影響(えいきょう)があったかなど、お聞かせ下さい。

神戸
 私は小学校五年生まで広島におりました。私の家には住めない状態でしたので、隣の小学校に通いました。小学校はバラックで運動会をやる時は自分たちでがれきを退(の)けて、スコップでできるように広場をつくりました。
そこで吉岡さんという前の学校の友だちにあいました。二人の担任は林先生でした。林先生は原爆で亡くなったのか、その後私たちの前には姿を現しませんでした。
 「うちは空から落下傘を見たとよ、そしたらピカッと光ったとよ」
 吉岡さんは顔から火傷をして、目はつぶろうとしてもつぶれない、鼻は曲がって、口も話をするのに手で押さえていないと、空気がもれてしまいます。背中を火傷した人は助からないそうです。彼女は前からやられていてみにくいケロイドです。盛り上がった上にも盛り上がっています。その子のお母さんも亡くなったそうです。

 私の祖母が岡山に来い、というので私たちは母の実家に行きました。岡山の高粱市という所は静かな所で、倉敷(くらしき)から吉備(きび)線で一時間のところです。

 山の中の盆地でした。岡山の学校ではおどろくことがたくさんありました。二階建ての算数(分数のこと)をやっていたり、英語で書いてあるのに日本語で読んだり(ローマ字のこと)してびっくりしました。

 私はきかん坊で、棒(ぼう)きれを持って男の子を従えて歩いていました。中学生になった時、朝鮮戦争が始まりました。ピカドンが落ちるのではないかと、恐ろしくなりました。町でえらそうな人をつかまえて、早く戦争がおさまらないかと聞き歩きました。 

 ある時、私の身の回りから友だちがいなくなりました。私の一番仲のよい友だちのあとを追いかけて、聞いてみました。
 「あんたと遊ぶと放射能が移るけ、おかあちゃんがあんたと遊んじゃいけんいうた」
 私は家にとんで帰って母に言いました。母は、
 「私たちを助けてくれた消防団の人たちが二次被爆しているんよ。だから被爆者から放射能が移ると皆思っているんよ。でもうわさは七十五日だから、誰にも言わなかったらわからんけえ、一生だまっていようよ。広島にいたっていうことも。」
 このことを聞いて、原爆は本当に恐ろしいものだ、ということを知りました。

 中学校の先生に、将来何になりたいか聞かれた時、私は、自分の体のことを一番よくわかる人になりたいと思い、看護婦さんになろうと思うようになりました。

 けど、被爆者は看護婦になれない、と思い、面接の時だまっていましたし、看護婦学校時代も被爆者だということは伏せていました。


大石
 どうもありがとうございました。篠原さんは町友会の会長さんをなさっていて、今回ここでお話されているわけですが、どんなきっかけでお話をしようと思ったのか聞かせて下さい。

篠原
 学校図書につとめている時、体に障害が出てきまして苦しんでいたのですが、たまたま病気が出たのを機会に、保健所に行って自分が被爆者であると名乗り出て、被爆者手帳が欲しい、と訴えたのです。

 自分も次第に年をとっていくし、平和と言っても抑止のための平和であり、その裏には莫大(ばくだい)な核兵器がかくされています。

 だから私たちのような被爆者が、一生懸命(けんめい)平和を訴えることによって、世界平和が守られていかなければならないと思い、現在にいたっています。

 町田市には現在、三百名余の被爆者がいます。生活に恵まれない人もいます。その半数が病に苦しみ、医療のお世話になっています。

 町田でも私たちの運動で被爆者に多少でも助成をうけられるようになり、昨年被爆者援護条例も作ってもらいました。今年から新しい段階に入りました。

神戸
 私には兄嫁がいました。女学校の動員で被爆しました。ケロイドが大変ひどかったのです。兄嫁は臨終(りんじゅう)の時、私をベッドによびつけ、

「ピカのことをかくさないで言いなさい。世の中から核兵器をなくす運動に参加して立ち上がってくれ。自分の子どもがかわいかったら、早くピカをやめさせなきゃいかん。」

 でも、私はうなずきませんでした。当然私は子供たちには被爆したことは話していませんでした。

 私は助産婦ですから、新しい命の誕生に出合います。元気な赤ちゃんがうまれると、皆私にありがとうと感謝します。今元気に生まれた赤ちゃんが、これから決して戦争にひっぱられない、という保証はありません。

 そんな場に出合うたびに、姉が言ったように、あのピカドンのことを皆にお話して、これから先核戦争があるかも知れない、ということを分かってほしい、と思って来たのです。

 母親大会で話して下さい、と言われた時、自分の子どもたちが被爆二世と呼ばれることを恐れて二、三回断ったのですが、話すことになりました。


大石
 三浦さんに、今までのお話を聞いて感想などありましたらお願いします。

三浦
 山崎団地に住んでいる三浦です。広島に特殊爆弾がおち、そのあと敗戦になったわけですが、その後生活がガラっと変わりました。進駐軍(しんちゅうぐん)というのがやって来て日本を占領し、日本から主権をなくすという考えてもみなかったような事態におちいりました。

 戦争そのものの、連合軍に関する情報の真相が、自分たちに有利なものしか、しかも小出しにしか出されなかった、ということで、その後、戦争の経過、戦争に使った武器、戦術、戦略等をわれわれが知ったのは、ずいぶん後のことです。

 皆様ご存じのように、原爆の事実を、とくに写真などは、ずっと後になって我々にみせたわけです。

 当時、五十年間草木もはえない、といわれてきた広島でしたが、兵器として、医療として、国家として戦争を遂行(すいこう)する上で、非常に不明な点があったのではないかと思います。戦力を保持することによってお互いに対立する、それを核に頼るということで核抑止ということばが使われるようになりました。

 今度は兵器では中性子爆弾、水爆、ということになりますが、幸い敗戦から四十四年、われわれは少なくとも戦争というものを体験しないで過ごしておりますが、これもあるいは偶然(ぐうぜん)かも知れません。あるいはそのために多くの人たちの努力があるのかも知れません。

 やはり貴重な体験をされた方の意志を、われわれが戦争体験のない人にしっかり伝えていき、運動をしていきたいと思います。そしていつまでも平和がつづくように願います。

篠原平太郎 (当時二十八才 陸軍軍人)
神戸美和子 (当時七才 小学生)

(町田市公民館主催 1989年
平和のための市民講座報告集より)




  1. 2005/05/26(木) 20:24:49|
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