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「未来への伝言」核兵器のない世界を・・・
~町田市原爆被害者の会(町友会)編 「未来への伝言」被爆の証言を伝え、核兵器のない世界を~

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私の原爆体験記

私の原爆体験記

 向井弘善 
(当時八才 広島にて被爆)
 
 あの八月六日、八才の少年を襲ったできごとは、衝撃的な体験として五十年後の今日も生々しく脳裏(のうり)に焼きついている。

 当時国民学校三年生だった私は、疎開先(安佐郡伴村、現広島市安佐区、沼田町大字伴)で近所の友だちの家の庭先にいた。

 一瞬、広島市街の方角から目も眩(くら)むばかりの閃光が光った。閃光を真正面から受けた形となり、眼底検査のフラッシュを浴びた直後のように、目の前が暗くなった。

 同時に、半袖半ズボンの露出した皮膚に直接当った光は、暖かいというより熱いという感触であった。
何があったのか、考える間もなく、”ドドーン”という強烈な爆音がひびき、友だちの家の天井が軋(きし)み、瓦がずれ、壁土の埃が舞うのをみて、近くに爆弾が落ちたに違いないと直感し、どこか安全な所へ避難しなければ、と伏せた身体をおこしかけたとき、”防空壕へ避難しろ”という大人の人の叫び声が聞こえた。

 山腹に横穴を堀っただけの防空壕までそれほどの距離(きょり)はなかったが、道すがら眺める東南の空には「きのこ雲」がものすごい勢いで広がっていた。

 しばらくして、防空壕を出た時に、雲ひとつない快晴の青空の跡形もなく、空一面低くたれこめた悪夢(あくむ)のような黒雲に覆いつくされていた。
風はなかったはずなのに、生暖かい風が舞っている。上空はかなりの強風らしく、広島市街で巻き上げられたと思われるボロ布、紙屑(かみくず0、木切れなど、あらゆるものが舞い降りてきた。

 いずれも半焼けまたは灰状のもので、中にはかなりの大きなものも混じっており、先ほどの閃光や爆音のすごさから見ても、異常な事態であることは察しられるが、広島がどうなっているかは分からなかった。果たしてどれくらい空を見上げて空想をめぐらしていたことか、ポツポツと頬をぬらす水滴に気がついた。
 どうやら雨が降ってきたらしい。雨はどんどん強くなってきたが、傘(かさ)は持っていなかった。気がついてみると、白い半袖シャツに黒い斑点(はんてん)が無数についていた。これが放射能をふくんだ「黒い雨」であることは後で知った。

 訳のわからない奇妙な体験が続く中、何の情報もないままに何時間かが過ぎた頃、広島に通ずる県道沿いに異様な光景が展開されはじめた。
 広島の中心街で被爆した人たちの避難の行列が延々と続いている。
 よく見ると、髪は焼け、皮膚はただれ、中には肉塊がたれ下がっている人もいる。焦茶色に半焼け状態のぼろ布のかたまりが体に付着しているだけの人々の目は、虚(うつ)ろで、疲れ切っているようにみえた。母親の背中に背負われた赤ん坊もぐったりして泣く気力を失ったかのようである。

 この地獄のような凄惨な光景を眺めているうちに、想像もつかないできごとがヒロシマを襲っている、果たして東観音町にある家はどうなっているのか、そこにいるはずの母親は無事なのか、心配と不安が募(つの)るばかりであったが、避難者と沿道の人たちとの会話の端々(はしばし)をつなぎ合わせると、広島市は全域が壊滅状態である、広島に落とされたのは、アメリカの新型爆弾であるらしい、ということであった。

 しばらく眠れない日が続いたが、一週間近くたってようやく東観音町の家は全焼したものの、母親は無事であることがわかり、安堵(あんど)の胸をなで下ろした。
そして八月終りには、市内の焼け残った一角である、宇品港近くの借家での新しい生活が始まった。
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  1. 2005/05/27(金) 08:12:44|
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