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「未来への伝言」核兵器のない世界を・・・
~町田市原爆被害者の会(町友会)編 「未来への伝言」被爆の証言を伝え、核兵器のない世界を~

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被爆者として訴えたいこと

被爆者として訴えたいこと

                              加藤美代子
(当時 長崎私立高女子生)

あの時の光景や出来事(できごと)

 昭和二十年八月九日、私は長崎市浦上の爆心地から北へ七・五キロの西彼杵郡時津町に住んでいた。当時市立高女の聖徒だった私は、学徒動員の仕事を休み、母が着る「お盆」のためのワンピースを縫っていた。自宅は前方に山一つへだてて浦上の町に対じしていた。

 空気がよどみ、風のない暑いその日十一時前、突然、役場のサイレンが警戒警報を発令、やがてそれは空襲警報へと変わった。この頃は時津上空を通って大村航空隊へのアメリカ機飛来が多くなっていたので、すぐ心の中で避難体制ができていた。
 しかし、警報のみで爆音はなく間もなく空襲警報解除のサイレン、家には私のみで父母は裏手の丘にある畑仕事に出かけ、弟は小学校へ行っていた。
 別棟の一部屋を貸している鹿児島出身の二反田さんは兵器工場に、奥さんは0才の赤ちゃんを寝かせつけて、長女(三才)を連れ、米の配給を受けに町まで出かけていた。

 突然ピカッと強烈な光が走った。今まで体験したことのない閃光に一瞬ぼう然とし、しかし私の脳裏(のうり=頭の中)に「敵機来襲」の予感がひらめいて身を守らなければ、という思いがつきあげてきた。とっさに仕事をほおり出し、座敷にとびこんで布団をかぶった。
 その時、また二度の閃光が走った。と同時に、「ドーン」というものすごい大音響、私は何がおこったのかわからずしてしばらくはそのまま、じっと座り込んでいた。

 生きているのか死んで入るのか、やがて私の頭に次の考えが浮んだ。「生きているなら体をつねってみればいい。痛かったら生きているんだ」と。私は右指で左のふとももをつねってみた。「痛い!」私は生きている、こわごわと布団をもちあげ部屋をみた。
八畳敷の畳(たたみ)はもち上がり、縁側の雨戸は破損していた。そして今まで針仕事をしていた部屋のガラス障子は粉々に飛び散り、まわり一面に散乱していた。私の思考が少し遅れていたら、私の顔には今頃無数のガラスの破片がくいこんでいたに違いない。
私はハダシで土間にとびおり、赤ちゃんの部屋に走った。ヨロイ戸だけのこの部屋は、赤ん坊に何の傷も与えていなかった。私は赤ちゃんを抱き上げ家の後方、竹林に掘った防空壕へ急いだ。

 人の声がする、それは林をへだてた家の池田さんの母娘であった。口々に安否を確かめあいながら、この突然の出来事が何なのか話し合った。ここは森の中で変化は何も解らない。
その中に母が降りてきた。二人は青い顔で、閃光と音に驚き、いも畑の中にうち伏したという。その時、黒い雨が降ってきたといった。
父母と娘は揃ったが、弟と二反田さんとその長女の安否が解らない。とりあえず、家に戻ることとなった。その時初めて前方の山の上空、則(すなわ)ち長崎浦上に大異変がおきていることが解った。
数十分前まで太陽に照らされ、明るかった上空は炎の色に染まり、空は暗くなっていた。長崎方面が大変なことになっていた。
 
 家の下の道に人影がした。市村さん(六十代の男性)であった。
 「長崎方面から全身ヤケドでボロボロの服を着た人が大勢歩いて来ている」
 と大声で私達に怒鳴(どな)った。長崎、浦上と時津は一本の大きな県道でつながっているのだ。やがて二反田さんの奥さんが長女をつれて、これもまた青い顔で帰ってきた。 弟達は閃光が走った時、教室の机の下に全員もぐったという。
 私達は兵器工場に出勤している二反田さんの帰りを待った。無事だったらいいのだがと。その人は一晩帰らなかった。やがてあくる日、顔はどす黒く工員服はボロボロの二反田さんが帰ってきた。
私達は大喜びで迎え、無事を喜びあった。彼は爆撃の後、体の損傷もなく、稲佐山を徒歩(とほ)で歩き、時津の待ちに帰り着いたという。その山(長崎市西側の山)には無数のケガ人がひしめき、地獄の様相だったという。
 彼は外見上無傷であった。当人自身の無事を喜び、やがて勤務先の倒壊のため職をなくし、鹿児島に帰郷された。なのにその一ヶ月後、訃報(ふほう)が届いた。原因不明の出血、毛髪の抜け、体力消耗により死去と、今思えば原爆による白血病死である。

 前に書いた池田さんの長男の妻は結核だったため、浦上にある長崎医大付属病院に入院し、折り悪(あ)しく(今にして思えば)九日が退院の日であった。夫の春樹さんはリヤカーを引いて朝早く奥さんを迎えに出発していた。そして原爆投下にあった。

父は翌日から池田さんに請(こ)われて、近所の人々と浦上に向かった。一両日煙のくすぶっている街々、「穴コウボウ」(医大病院の東側の山)の付近をくまなく探してまわった。
 そこにはおびただしい人々の死体、爆風にふきとばされた格好(かっこう)のまま、あるいは家の下敷きで息たえていたという。もちろん、犬や猫、馬も牛も。池田さん夫婦は大橋の上で発見され、戸板に乗せられて無言の帰宅をした。

 それから三日たった十二日、私は母や近所の人々に連れられて浜田郷にある「万行寺」に、被爆した人々の介護に向かった。本堂の広い板の間には、緊急に集められた布団の上に、傷ついて長崎から逃げられて来た人々が横たえられ、これも徴用された長崎医専の学生達が白衣を着て介護に当たっていた。
異常な雰囲気の中、悲鳴やウメキ声があふれ、臭気がただよい、患者の傷の中からウジがわき出ていた。今の人はこれを聞いても信じられないことであろう。しかしこれは現実のことだったのである。

 私の小学校の時のクラス・メイト岩田さんも被爆してこの寺に収容されていた。その美しかった顔は、ガラスの破片がくいこみ、その取り出し手術(でも)、無惨な顔に変わっていた。彼女は被爆して十代のまま人生を終えた。

 寺には朝鮮の人も収容されており、「アイゴ、アイゴ」の泣き声は終日本堂に響いた。今その人達はどうしておられるであろうか。現存しておられるだろうか。八月九日がおとずれるたび、この情況を思い出し、六十五才になった今でも涙があふれてくる。

昨年(平成五=1993年五月)小学校の同窓会があり、出席できなかった私に名簿が送られてきた。男子組七十五名、女子組八十名、その中で原爆による死亡者は合わせて三十三名で、十六才になるか、ならないかの短い人生であった。
 名前の上に符(ふ)せられた物故(ぶっこ)を表す黒丸が、その人の幼な顔とだぶって痛々しかった。
 混乱の中できいたうわさ話では、投下された爆弾の名は「新型爆弾」で広島に落とされたものと同一であり、当時から七年間は草も生えない恐ろしい毒の爆弾と聞いた。そして日は過ぎやがて十五日の玉音放送となるのである。

被爆後の病気や生活の苦しみ

 終戦の翌年、教師の道をめざし、長崎青年師範学校へ進学した。(現長崎大学)そして卒業と同時に昭和二十四年四月から三十二年まで西彼杵郡の三つの公立中学校で家庭科、国語科、音楽科を担当した。
 当時は所得免状以外に素養のある教科を受け持つことが常であった。若かったせいもあり、また、被爆者の看護をしたため、第二次放射能汚染も受けたということを知らされないまま歳月は流れていった。

 そして昭和三十年、日本女子大学に編入学卒業後家庭に入った。二人の男児を育てながら高校の講師を十一年間勤め、専任試験を受けてパス、昭和四十九年から都立高校の教諭となった。同年十月、職業と家庭の両立で過労ぎみとなり、体もだるく、血圧も上がってきた。
また時折胃も苦しい、更年期前期でもあり、漢方薬局で薬を処方してもらい毎日服用していた。しばらく後に右乳の脇が痛むようになった。胃の変調も気になる。私は思いきって池袋の癌研の内科を受診した。
 内科では単なる胃炎と診断、ただ外科の外来では受診者多数のため、長時間待つこととなった。あまりの長さに私は、カルテを取り下げる旨(むね)を申し出た。

 その時、受付の女性が、
「今まで待ったのだから、少し辛抱したら」
 と言って下さった。私は思い直して順番を待った。今にして思えば、この女性の一言が私の生命に関与することになったのである。

 診察の担当医は外科部長の久能先生であった。何ということであろうか、先生は痛い方の右乳ではなく、左乳の上部に持っていた黒いマジックでチョンとX印をつけ、
 「ちょっとおかしい所があるのでレントゲンをとりましょう」と言った。そして二度のレントゲン、組織検査とすすみ、乳癌がみつかったのである。
 その時の私の動転は今でも鮮明である。長男は翌春高校受験、二男はまだ中学一年生、私の人生は二人の子と夫を残してこれで終わるのか、と暗たんたる思いであった。

 十二月二十七日執刀、以降三ヶ月毎の検診を受け、その結果におびえながらの十九年であった。幸い早期であったため、左乳はなくしたが今のところ順調である。
 しかし手術後ケロイドとなり、左胸の傷みは消えない。昭和五十五年には子宮筋腫、六十二年には帯状包診、六十三年肝臓障害と続き、心身共に難問を迫られている。
 唯感謝しなければならないことは、
 「もう少し辛抱して待ってみたら」
の受付の女性の一言である。私にとって、それは今まで生きて来ることができた命の恩人の声である。あのまま帰って放置していたら、今の私は存在していないかもしれない。後年、その女性にお礼を申し出たが受け入れてもらえなかった。本当に私にとって神のごとき存在であった。

 数々の「痛い」の連続であった。「健康な身体に健全な心は宿る」といわれる、まことに至言である。体力がなく、病気への快復力が弱い私は、また心も強固ではない。もし二次的とはいえ、被爆の全くない身体だったら、私の左乳はどうだったか、その後の免疫力はどうであったか疑問は尽きないのである。

 ある時三十二才の次男が言った。
 「僕は被爆二世だからな」
 彼は私から生まれた故に、この思いをもって生きていくのだろうか。そしてもしそのような病気になったら、思いがけない自分の運命と私を恨(うら)むのだろうか。
 原爆を生み出した科学者とそれを投下した国によって幾多の人々とその子孫まで類をおよぼすこの結果は一体何であろう。原爆記念日を迎えるたび、この私の憤激(ふんげき)は天をつく。
 
 昭和五十二年五月、原爆投下の日「いも畑」の中に打ち伏した母は肺ガンのため八十二才で他界した。いとこの綾さんは乳癌から生還したが、その妹は同じ病気で他界した。幼い子を残して。

今、被爆者として訴えたいこと

 私自身の中には被爆者としての自分が信じがたい。だからあれから二十九年たって乳癌になった時初めて郷里の弟から、時津町在住者(当時)に被爆者手帳が公布されている事を知らされた。弟は電話で言った。
 「姉さんが病気になるんだったら早く手帳のことを教えればよかった」と。
 弟はそのようなことのあった少女時代の私の出来事を義兄に知らせたくなかったのだ。何と言う広島、長崎の原爆に会った人々の不幸、それが次世代にも続く不幸であるだけに。(何故に被爆者である事にうしろめたさを感じなければならないのか、自分の責任でないものを)

 日本はもっと全地球人類の為に、生きとし生きるものの為に原爆の恐怖を訴え続けなければならない。唯一その悲惨さと恐ろしさを体験的に知らせられる国だから。それなのに、政府はおとなしいのか、何故ちゅうちょするのか解らない。

 「見るは百聞にしかず」願うべき核保有国、核開発途上国の首脳を広島・長崎に招き、当時の惨状と現存する人々のつきない心身の苦しみの実態を知らせたい。
 また、世界の人々にその事を具体的に啓蒙し核の悲惨さを浸透させねばならない。その事が被爆国日本の使命だと思っている。
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  1. 2005/05/27(金) 20:34:31|
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