「未来への伝言」核兵器のない世界を・・・
~町田市原爆被害者の会(町友会)編 「未来への伝言」被爆の証言を伝え、核兵器のない世界を~

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。




  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告|
  3. トラックバック(-)|
  4. コメント(-)

長崎原爆体験記

長崎原爆体験記


山口勝信
    (当時十三才・中学一年生)

 私の生家は長崎原爆中心地から四・五キロ北にある、時津町(当時は村)元村です。

 私は当時東陵中学校の一年生で学徒動員により三菱造船所に勤務して約二週間が経っていました。 確か八月一日頃、三菱造船所も空襲を受け、私たちは裏山に掘られた防空壕の中で、約五十メートルはなれたところにも原爆が落とされました。
 防空壕の中では人間魚雷のようなものが作られていましたが、私たちはその傍らに蹲(たたず)んで、爆弾が落ちる度に凄まじい震動に震えていました。

 八月九日は朝から快晴の暑い日でした。朝八時頃、警戒警報のサイレンが鳴ったままになっていました。私の当時の勤務は午後一時からになっていました。通勤列車の時間も考えながら、森淳之輔という友人の家に立ち寄ってそこで弁当を食べて出勤するのを常としていました。すると、病気療養中の兄が言いました。

 「午後の出勤なのにもう出かけるのか、それに警戒警報中じゃないか。六日に広島に新型爆弾が落とされたそうだ。多分原子爆弾らしいぞ。

 私は格別意にも介せず
「午後どうなるかわらかないし、早めに友人の家に依っていくから」

 と言い残して時津の家を出ました。

 森淳之輔の家は、長崎駅から左手の山手にある福済寺の裏山の小高い所にありました。長崎港が眼下に見えて、長崎駅が真下にありました。
 家の裏は段々畑で、山が迫っていましたが、港の見える南側は庭のようなかぼちゃ畑になっていました。その先は、家々の屋根が連なり、緑色をした福済寺の瓦屋根がひときわ大きく、長崎港に浮かんでいるようでした。
その港の対岸がこれから出勤する三菱造船所になっていて、クレーンが動いたり、時々白い煙が立ち上がったり、様々な町の騒音が反響したりして、田舎育ちの私にはとても魅力的な光景でした。畑の傍らの水道で手を洗うと、まるでお湯のようでした。

 真白くピカピカと輝く港を見ながら早めに弁当を縁側で食べ終えた頃、ラジオが空襲警報を告げました。---島原上空を北上中の敵大型二機あり--殆んど同時にカンカンと敵機来襲を告げる鐘がけたたましく鳴りました。

 「森君!防空壕はどこ!」
 と叫ぶや否や、兼ねて聞き覚えのあるB29の爆音が南東の空から響き渡ってきました。私はとっさに白いシャツの身を隠さなければならないと思い、下駄をぬいで縁側に上ったそのときでした。ピカ-ッ と目のくらむ閃光と フワ-っとした熱風のようなものを感じ、私は無我夢中で家の中の暗い方にかけこみました。

 多分十歩も走ったのか、台所みたいな感じがした瞬間、ガーンと顔に砂がめりこむ気がしました。一瞬、真暗闇となり、静寂な時が続いたようでしいた。
 「見えない、聞こえない、どうしたのだろう」
と思っていると、
「淳ちゃん」
という声が聞こえ、
「ハーイ」
という声に続いて、
「お友達は?」
という声が聞こえました。私はハッとして
「大丈夫です。私はここにいます」
と答えました。それでも闇がつづいていたので「どこ」という声を頼りに、少し明るい方に歩いていって、三人が手をとりあって
「怪我していない?」
「良かったね」
と喜び会いました。煤や埃で真っ暗だったのだと気付いたとき、お互いの顔が煤で真黒のほかは元気そうでしたが、おばさんの足から血が流れていました。

 家の中はすべてが滅茶苦茶でよく見ると、柱が歪んで今にも潰れそうなのに気付きました。怖くなって外にとび出ると、不思議な光景を見ました。
 真っ青な空の下は一面真黒い煤煙の海が静かに視界を広げていくのを見ました。汽車や電車やクレーンなど、町の騒音が一切消えて水を張ったような静かな瞬間がありました。
しかし、それもあっという間のことで、俄に人に悲鳴や泣き声、物の燃える音の渦に巻込まれました。煤煙の海の中に緑色の福済寺の崩れた屋根が見えました。

 「寺に爆弾が落ちたのでは」

 「それにしてもあの光はなんだったのだろう?」
 と言い合っているうちに、煤煙の中に長崎駅の屋根やビルが現れ始めて、群衆の悲鳴が私たちの山手の方に段々とかけのぼってくるのが解りました。
 「小母さん、もう火の手が近づいています。逃げましょう」
 と叫んでも、呆然とたたずむ親子には通じないようでした。そこへ一人の少女がずきんを被って息をはずませて登ってきました。
 「お母さん」
 と叫んで少女はお母さんにだきつきました。
 「洋子ちゃん」
「姉さん」
 と言いながら三人の親子はだき合って喜んでいました。森君の姉で活水女学校の三年生であることを初めて知りました。

 私は一刻も早く家に帰りたくなって、北の方向の長崎のN・H・Kの方向に憩うとしましたが、血相を変えて泣き喚く人達がどんどんこっちへ逃げてくるのです。
 やむを得ず、私は森君の一家と逃げるほかはありませえんでした。森一家は裏庭の小さな池の中に何やらどんどん投げ込んでいました。その中、いろんな人から
「浦上方面は全滅だ」
とか
「早く逃げないと危ない」
とか
「寺町の方は安全らしい」
とか情報が伝わってきました。
 私達は、福済寺に火の手が上り黒煙が天を覆う頃、燃える家を見捨てて、諏訪神社の方へ人波に沿って逃げました。西坂町の方から山越えで逃げてくる人達は、血を流しながら、ドヤドヤ徒集まってきました。
 その中に十人くらいの白人の捕虜が手錠をかけられていて、日本刀を引き抜いた憲兵に引率されていました。

 群集の中から
 「こんな奴らは殺してしまえ」
 と怒鳴る人がいました。

 私達は森家の墓地のある寺町の山裾に行くことになりました。西坂町の方向は、天に届くような真赤な炎の壁がゴーゴーと轟き、パチパチ、パン、パンという音を立てて凄まじい炎の風を見ているようでした。
 墓地にはたくさんの人が集まっていて、水やおにぎりの配給が行われていました。
私は時津の家が心配でしたが、どうすることも出来ず、山影の墓地で西北の空が炎に包まれ、天にゆらゆらと動く様子をみていました。
 下の町の方では消防車の音や人の呼び声が渦のようにわきおこっていて、山に抱かれた様な墓地では蝉が鳴いていました。私は訳もなく涙が流れて仕方がありませんでした。

 暗くなっても西の空は赤々と燃えていました。敵機来襲を告げる鐘が鳴り、私達四人は骨をおさめてある「セコ」の石蓋をあけました。中は結構広くて持参した蚊帳を下に敷きました。小母さんは
 「先祖と一緒に死ねたらいいわ」
と言いながら親子三人一緒に入りました。

 「山口さんも入りなさい」
 と言うので、私は爆弾が怖くて必死にもぐりこみました。黴の異臭が鼻をつき、周りは水がたまっていました。お骨を入れた壷が私の首の傍らにありました。敵機来襲は二回位ありました。

 カンパンを二~三個食べ水筒の水をすするように飲んで、毛布にくるまって横になっても、蚊がいたりしてとても寝ることはできなかったようですが、町の中が静かになると、夜が明けるのを待ち兼ねて、朝四時頃だったでしょうか、四人は森君の家に帰りました。

 跡形もなく焼けつきて、バラバラに割れた瓦と台所の流し台だけが残っているように見えました。畑のかぼちゃが焼けて半分くらい食べられました。どこからともなくニャーンと猫がすり寄ってきました。

 「玉ちゃん生きていたの」
 洋子さんは猫を抱きしめました。猫は尾を火傷していました。森君一家は諫早の親戚に行くことになりました。私はまた会う日を誓って西北町の方へ向かいました。

 もう五時か七時頃だったでしょうか。裏山を少し右手に回ると見晴しが急に開けて、浦上方面の緑一つなくなった西北の山々が、絵で見た砂漠のようでした。
 昨日と打って変わり、殆ど人影が見えませんでした。N・H・Kの近くで下の道路に出る道を探しても瓦礫ばかりで、いたる所で火が燻っていました。

 思い起こせば、私はそのとき下駄ばきだったのです。方向を定めてとびながら進みました。
 赤毛の馬が真青な腸を出して道に横たわり、行く手を遮っているのを見たときギョッとして足が竦んだばかりか、本当に家に帰れるのだろうかと思うと心細くなって座り込み、涙が出てきました。
 それからどのようにして下の大通りまで出たかよく覚えていませんが、遠くの方で人影が動いたり、人の声を聞くたび「ああ、生きている人がいる」と思うと勇気がわいてきました。

 電車通りに出ると、車輪だけ焼け残った電車を見て、汽車も電車も自動車も全滅したことを知り、これは兄が言っていた新型爆弾に違いないと思いました。
 茂里町の三菱兵器の所で私はがく然として立ち止まりました。ここには私の姉が働いていました。鉄骨がぐにゃぐにゃに押し潰され、焼け焦げた工場は無残でした。

 「こんな惨状では姉が生きているはずはない、もし生きていたとしても、どこかで大けがをして苦しんでいるにちがいない」と思って、近くの防空壕を探さねばと考えました。

 茂里町から長崎医大に通ずる旧道があり、ここは小高い丘が迫っていて、横穴式の防空壕がたくさんありました。近くの防空壕に行こうとしたら、血まみれの憲兵がサーベルで半身をおこし、
「水をくれ、水をくれ」 
 と必死の叫び声をあげていました。もう一人の憲兵が
「馬鹿野郎、水を飲むと死ぬんだ」
 とどなり、私が中をのぞこうとすると、
 「だめ、だめ」
 と手を振りました。防空壕の中は暗くて呻き声が聞こえていました。私はこわくて逃げるように、医大の方に走りました。
 医大前の電車の停留所の角に浜崎という靴屋がありましたが、焼け野原でした。この靴屋さんの若夫婦は、時津の私の家の
離れに疎開して靴を作っていました。ここでは、おばあちゃん夫婦と女学生のお嬢さんが住んでいたはずですが、人影はありませんでした。

 電車と自動車道路の交差する浜口町で、初めて歩いている人に会いました。頭髪はなく、頭は墨のように黒く、二つの目がふしぎにギョロギョロして白い歯が見えました。
 着物はボロボロで杖をついてまるで影法師のように私の方に近づいてきて、
 「ぼっちゃん、怪我しとらんとね、よかったね、先へ行けばもっとひどかばい」
 と言いました。私は恐ろしくて逃げようと思っていましたが、本当にほっとしました。私は何も言えず、急に足がふらふらになり座り込みました。
 「どこまで行くとね』
 と尋ねられて、
「時津の家に帰るところだ」
 と言うと、
 「ほう、そりゃ危なかばい、横穴のあるところまで行かんとね」
 と優しい小母さんの声でした。

 その時、晴れ渡った青空に飛行機の爆音が聞こえました。この場に二人は死んだように伏せて、飛行機の去るのを待ちました。多分十時か十一時頃だったでしょうか。爆音が去ると、小母さんは自分の体を見せるような仕種をしながら、
 「見てみんね、こぎゃんやられて憎らしかね、仇(かたき)は取ってくれんねよ」
 と言って立ち上がりました。私が大きく頷(うなづ)くと、
 「皆が心配して待っとるばい、早う帰って安心させてやらんね」
 と言いました。

 私は黒焦げに半壊した鎮西中学校のビルや稲佐山から城山方面の山々がすっかり焼けつくして、長崎がこんなに広かったのかと初めて赤茶けた砂漠のような町を見て、人々は皆死んでしまったのではないか、と思いました。

 長崎刑務所の前の石垣が下がえぐられて、上に吹き飛んだようになっているのがふしぎな光景に見えました。
 至るところに黒焦げになって死んでいる人がいましたが、働いているものは殆ど見当たらなかったのです。こんな光景の中で、ふしぎに「自分は生き残ったから、この様子を皆に話したい、生きて帰りたい」と激しい衝動が湧くものであることを知りました。

 大橋の欄干に真っ赤に焼けただれた男の人が、瞳を半開きのまま全裸で座ったまま死んでいるように見えました。大橋の鉄橋にかなりの人が集まっていました。
 橋の下や川の中にも人が動いていました。私ははじめて生きて帰れるかも知れないと思いました。よく見ると憲兵が怪我をしている人を列車に乗せている所でした。 私は憲兵に
 「汽車はすぐに出るのですか?」
 と聞くと、
 「怪我していないのなら歩け、汽車は当分出ないぞ」
 と言いました。私は線路の上を走るように、道ノ尾の方へ急ぎました。その頃から人の往来がかなり見受けられるようになりました。線路の土手は夏草が見えはじめ、六地蔵の辺りは青い夏の田んぼが広がっていました。

 漸(ようや)く時津の入口、内坂の堀切にさしかかった時でした。家に疎開して靴屋を営んでいた浜崎の若主人が、私の前で棒立ちになってしばらく呆然(ぼうぜん)としていました。
 「勝信さんじゃないかね」
 「はい」
 「みんな心配しとらすよ、早う行って安心させんね」
 私はつぶさに、
 「おじさん、浦上から全廃ばい、おじさんちもなんもなか、おばさんたちもどこへ言ったか、探しようがなかばい」
 と言って別れました。

 私は渾身(こんしん)の力をふりしぼって、坂を転げるように走りました。継石まで来ると、青々と広がる田んぼの中に我が家が見えたとき、母にとびついて泣くかも知れないと思いました。家の前の道路には、母や長女の姉や素懐の木原さんたちがみんな手をあげて待っていました。

 「お母さん、帰ってきたよ」
 と言うと、母は声を出して泣きながら私を抱きました。母が私を抱いたのは後にも先にも人生の中で、唯一度だったと思います。姉も木原さんも声をあげ泣いてくれました。

 私は真先に流し台に行って水を飲みました。すると、南向きの流し台の前のガラスがみんな割れていました。二階のガラス戸も南側は爆風で吹き飛び、その後キノコ雲が出たことを初めて聞かされました。
 何よりもびっくりしたことは、茂里町の三菱兵器で働いていた姉が、全く無傷で家に帰っていたことでした。姉は工場の傍らで水を被(かぶ)り、工場をすぐ逃げ出して、近くの山を伝って、山越えで夜中に帰ってきたのだそうです。

 疎開の人の浜崎靴屋の主人は、家族の行方を捜すことができず、その日の夜遅く憔悴(しょうすい=つかれ)きって帰ってきました。
 後で聞いた話ですが、お嬢さんが、半身黒焦げに火傷して帰ってきたが、話すこともできず、気が狂ったように苦しがっていたと。そして数時間後、急にとびおき、ずきんを被って外へ飛び出すと、側溝に身を丸めると「怖い、怖い」と叫びながら死んだということです。

 城山町に住んでいた従兄弟が十一日の午後、無傷で、元気にひょっこりやってい(来?)ました。長崎西校(旧瓊浦)グランドで被爆して吹き飛ばされたが、怪我はなかったそうです。

彼は、叔母、母のことを、自宅で顔や手足を火傷し、家は全壊、父は三菱長崎製鋼所で即死、次女は城山中学校で教鞭(じゅぎょう)中即死したこと、弟達が近所の人と川辺のテントにいること、その他、そのケロイドの母が今朝長崎市民病院に入院したこと等を話しました。
 それから私は兄と二人で、その全焼した叔母の家を片付けたり、バラックを建てるため、リヤカーを引いて何回となく城山の焦土へ行きました。

 それから、その従兄弟は私の家に居て、米を搗(つ)いたり、草をとったりして手伝っていたのですが、二週間もしない頃から元気がなくなり、腕などに小豆(あずき)大の赤黒い斑点が出て、頭髪が気味悪くボソっとぬけました。

 九月二日のことでした。ミズリー号上で終戦調印式が行われる日のことでした。食事もしなくなって、急に
 「お母さんに会いたい」
 と言いながら、長崎の市民病院に歩いて出かけました。これも後で聞いた話ですが、青ざめて母の病室に入るなり、
「お母さん」
と言って叔母に抱きついたそうです。叔母が
 「苦しいね」
 と尋(たず)ねると、
 「苦しい」
 と答えたまま、息がきれたということでした。
スポンサーサイト




  1. 2005/05/27(金) 20:46:05|
  2. 長崎|
  3. トラックバック:0|
  4. コメント(-)

トラックバック

トラックバックURLはこちら
http://machihei.blog11.fc2.com/tb.php/19-9df141ef
 

  

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。