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「未来への伝言」核兵器のない世界を・・・
~町田市原爆被害者の会(町友会)編 「未来への伝言」被爆の証言を伝え、核兵器のない世界を~

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神戸さん、篠原さんを囲んで被爆体験を語る—

神戸さん、篠原さんを囲んで被爆体験を語る 
司会 大石洋子

司会進行(大石)
 初めて対談形式をとりましたので、うまく被爆者のお話が伝われば、と思います。篠原さんは現在七十三才、当時軍人であり、神戸さんは当時七才の少女の時の体験です。

 お二人は当時別の所で八月六日、八月十五日を迎えられたと思いますが、その直後どんな生活をされたかをお聞きしたいと思います。篠原さんはかなり爆心地に近いところにいらしたそうですけど。

篠原
 ただ今紹介にあずかりました篠原です。私は兵隊であり、東京にいましたが、新しく船舶兵というのができるということで、広島にいきました。昭和二十年の七月でした。

 私の参ったところは、広島の比治山のふもとの南町でした。そこは爆心地から一・八キロの地点でした。そこの通信隊に参りまして、新しく船舶通信隊を結成しました。そして南方に行く予定でしたが、戦局がひどくなり、行けなくなりました。

 八月六日は暑い日でした。私は兵舎の中に寝ていました。前日の五日は一晩中空襲警報の鳴りっぱなしで、市民も軍人もろくろく寝ないで表に立っていたのです。翌朝は解除になり、食事や仮眠をしようとしていたのです。そこをねらわれた訳です。

 私は日中戦争の頃から爆弾や実戦の経験はあったのですが、この日の経験は全く今までと違っていました。

 それは、目に感じた光は、黄色っぽい赤いもので、目をさすようでしたので、一瞬目がつぶれたと思いました。

 それと同時に、ドーンと大きな音が響きました。光と音と同時に、私のいた兵舎はつぶれて、私はその下敷きになりました。その後しばらく私は意識を失っていました。記憶をとりもどしたのは、午後二時か三時頃だったと思います。

 その後何があったのか、私の人生の中でとぎれた部分です。
 その後、兵舎から抜け出し、広島の郊外の仁保というところに避難しました。同じ隊の動ける兵隊をつれて、小学校までいきました。避難する人たちが道路にあふれ、ある方向に向かっていくのですが、その姿は、体は焼かれ、腕のあたりは水ぶくれになり、化けもの同然で、前か後ろかよくわかりません。

 助けることもできなくて、自分たちが避難するのが精一杯でした。まわりの家々もほとんど焼けて、避難した小学校も屋根瓦は吹き飛ばされ、柱が少し残っている程度でした。何もない片すみに軍人や市民が何百人もそこに落ち着いたのです。

 その時、浅い傷ですが、数十ケ所流血していました。これが私のその時の状況です。

大石
 どうもありがとうございました。次、神戸さんはいかがだったでしょうか。

神戸
 こんばんは、神戸美和子です。私は八月六日の朝は広島の家の中にいました。ふっと外をみた瞬間、ものすごい光がさしました。その色は赤紫色だったと思います。頭の上から覆(おお)いかぶさるように光ったのです。
あっと思った瞬間、ドーンとお腹に響(ひび)く音がして、それと同時に私の前にあった障子(しょうじ)、ガラスがこわれていて、ふっと気がつくとそのガラスの破片が私の体にささっていました。
 母が外からものすごい勢いでかけこんできて、
「美和子!」
「おかあちゃん、ここ!」
 外に出た時、ちょうど原爆雲が空へ舞い上がたていくところで、大きな真っ黒な煙の柱がゴーと空にひきこまれていく感じでした。
「恐ろしい」と私がいうと、母が
「恐ろしいことになったね。新型爆弾が落ちたんじゃけん、あんた、しっかりしんさい」
 と言いました。私のところは爆心地から四キロほど離れていましたので、焼けることはなかったのです。

 逃げるすべを失った私たちは、土手の下にもぐりこんで、そこには体にふれるとかぶれるハゼの木がありましたが、空から敵が攻めてきても大丈夫なようにもぐりこみました。でも、あまり体から血が流れて来るので、そこにあった赤チンとボロ布でつくった三角巾(きん)で血止めをしました。

 どの位時間が経ったのか、広島の上空が真っ暗になってきました。
「夕立になったら困るね」
 と母と話していると、近くにいた人が私たちに話しかけてきました。その女の人は背中に赤ん坊を背負っていたのですが、
 「私の赤ん坊をみて下さい」
 赤ん坊は死んでいました。
 「背中の赤ちゃんは死んでいますよ」
 それを聞いた母親は
 「じゃあ、この子を預かっていて下さい。もう一人家に残っていますので助けてきます」
 こういう時の人間の心理はどうでしょう。頭の中はパニック状態です。
 「いいえ、この子は預かれません」
 「いいえ、おいていきます」 
 という問答を繰り返していたようですが、私はその子がどうなったか覚えておりません。逃げて来る人たちもたくさんいました。
 その日は落下傘(らっかさん)にくっついて原爆は落ちてきた様です。
 「落下傘!」
 と言ってそれを見た人は、顔から火傷をしました。光のあたった部分がすべてケロイドになっていたようです。

 広島の町はその日から何日間も、空を焦(こ)がすように夜も昼も燃え上がっていました。本当に恐ろしい!恐ろしい!と思ったのが子ども心です。私の家のすぐそばにぶどう畑があったのですが、その下にカヤをつって何日間も寝ていました。
なぜかというと、命からがら、食べるものもないのでぶどうを盗みに来る人たちがいる訳です。ぶどうを盗まれては困るので、ドロボーの番をするために、私と母はその中に寝ることになったのです。そんなことですから逃げてきた人たちに、ぶどうを一房あげたいけれど、あげられないと母は言っていました。本当に生と死の境でした。

 前日まで広島の市街地は、建物疎開を行っていました。私たちも町内の当番で、モンペをはいて、たくさんの木を運んだりしていました。一日前まで、母と私は広島市内のデパートのそばに建物疎開をしていたので、一日違えば、当然私たちは骨までなくなって、助からなかったでしょう。そういう状況でした。


大石
 どうもありがとうございました。ここに出席している方は、先ほどの中村里美さん、それと三浦さんとおっしゃいまして、山崎団地の自治会の役員をなさった方、フロアを代表して出席されています。
 では、篠原さん、軍人として、そのご被爆されて、どういうご苦労があったか、被爆者としてその後の生活について話して下さい。

篠原
 仁保の小学校では、軍人や一般市民の方が何百名か負傷していましたが、そのほとんどが動けない状況で生きていました。その人たちが毎日死んでいくのです。

 原爆で焼かれた人たちは、最初は赤くただれた形なのですが、日がたつにつれて黒くなって肉がとけて流れ出し、えぐられた状態です。
 夏ですからそこへウジがわいてボロボロ落ちていくわけです。そして皮膚にあずき色の斑点ができて、髪の毛がぬけて、鼻血が出ていくと、その人は死んでいくのです。

 仁保の小学校では、指揮をとる人がいませんので、私が指揮をとることになりました。毎日何十名という人が死んでいきます。小学校の裏の畑に死体を運んでいって、枯れ木といっしょに死体を焼きました。それが毎日の仕事になりました。

 約一ヶ月間、私は指揮をしてきましたが、軍人ですので、その後仕事をする援助部隊に指揮をゆずりまして、広島の市内に帰ってきました。比治山に天幕をはって残った兵隊と生活していました。

 東京には翌年の一月に帰りましたが、人間いろいろ経験したものですから、何をしたらよいのか、毎日悶々(もんもん)と暮らしていました。

 でも、これではいけない、と思い、学校の教科書を作っている学校図書という会社に入り、三十年近くつとめて停年となりました。その間に放射能による障害が出まして、二十七年程前から脊髄(せきずい)をやられ、今でもコルセットをして生活しています。あずき色の斑点が出て、髪の毛もぬけてきましたが、いまだに生命力があるのか、生きています。

大石
 神戸さんはちょうど思春の時被爆者としてつらい思いをした数々の経験があると思いますが、そのお話とか、看護婦になられるに当って、お仕事を選ばれる時に、被爆なさったということでどういう影響(えいきょう)があったかなど、お聞かせ下さい。

神戸
 私は小学校五年生まで広島におりました。私の家には住めない状態でしたので、隣の小学校に通いました。小学校はバラックで運動会をやる時は自分たちでがれきを退(の)けて、スコップでできるように広場をつくりました。
そこで吉岡さんという前の学校の友だちにあいました。二人の担任は林先生でした。林先生は原爆で亡くなったのか、その後私たちの前には姿を現しませんでした。
 「うちは空から落下傘を見たとよ、そしたらピカッと光ったとよ」
 吉岡さんは顔から火傷をして、目はつぶろうとしてもつぶれない、鼻は曲がって、口も話をするのに手で押さえていないと、空気がもれてしまいます。背中を火傷した人は助からないそうです。彼女は前からやられていてみにくいケロイドです。盛り上がった上にも盛り上がっています。その子のお母さんも亡くなったそうです。

 私の祖母が岡山に来い、というので私たちは母の実家に行きました。岡山の高粱市という所は静かな所で、倉敷(くらしき)から吉備(きび)線で一時間のところです。

 山の中の盆地でした。岡山の学校ではおどろくことがたくさんありました。二階建ての算数(分数のこと)をやっていたり、英語で書いてあるのに日本語で読んだり(ローマ字のこと)してびっくりしました。

 私はきかん坊で、棒(ぼう)きれを持って男の子を従えて歩いていました。中学生になった時、朝鮮戦争が始まりました。ピカドンが落ちるのではないかと、恐ろしくなりました。町でえらそうな人をつかまえて、早く戦争がおさまらないかと聞き歩きました。 

 ある時、私の身の回りから友だちがいなくなりました。私の一番仲のよい友だちのあとを追いかけて、聞いてみました。
 「あんたと遊ぶと放射能が移るけ、おかあちゃんがあんたと遊んじゃいけんいうた」
 私は家にとんで帰って母に言いました。母は、
 「私たちを助けてくれた消防団の人たちが二次被爆しているんよ。だから被爆者から放射能が移ると皆思っているんよ。でもうわさは七十五日だから、誰にも言わなかったらわからんけえ、一生だまっていようよ。広島にいたっていうことも。」
 このことを聞いて、原爆は本当に恐ろしいものだ、ということを知りました。

 中学校の先生に、将来何になりたいか聞かれた時、私は、自分の体のことを一番よくわかる人になりたいと思い、看護婦さんになろうと思うようになりました。

 けど、被爆者は看護婦になれない、と思い、面接の時だまっていましたし、看護婦学校時代も被爆者だということは伏せていました。


大石
 どうもありがとうございました。篠原さんは町友会の会長さんをなさっていて、今回ここでお話されているわけですが、どんなきっかけでお話をしようと思ったのか聞かせて下さい。

篠原
 学校図書につとめている時、体に障害が出てきまして苦しんでいたのですが、たまたま病気が出たのを機会に、保健所に行って自分が被爆者であると名乗り出て、被爆者手帳が欲しい、と訴えたのです。

 自分も次第に年をとっていくし、平和と言っても抑止のための平和であり、その裏には莫大(ばくだい)な核兵器がかくされています。

 だから私たちのような被爆者が、一生懸命(けんめい)平和を訴えることによって、世界平和が守られていかなければならないと思い、現在にいたっています。

 町田市には現在、三百名余の被爆者がいます。生活に恵まれない人もいます。その半数が病に苦しみ、医療のお世話になっています。

 町田でも私たちの運動で被爆者に多少でも助成をうけられるようになり、昨年被爆者援護条例も作ってもらいました。今年から新しい段階に入りました。

神戸
 私には兄嫁がいました。女学校の動員で被爆しました。ケロイドが大変ひどかったのです。兄嫁は臨終(りんじゅう)の時、私をベッドによびつけ、

「ピカのことをかくさないで言いなさい。世の中から核兵器をなくす運動に参加して立ち上がってくれ。自分の子どもがかわいかったら、早くピカをやめさせなきゃいかん。」

 でも、私はうなずきませんでした。当然私は子供たちには被爆したことは話していませんでした。

 私は助産婦ですから、新しい命の誕生に出合います。元気な赤ちゃんがうまれると、皆私にありがとうと感謝します。今元気に生まれた赤ちゃんが、これから決して戦争にひっぱられない、という保証はありません。

 そんな場に出合うたびに、姉が言ったように、あのピカドンのことを皆にお話して、これから先核戦争があるかも知れない、ということを分かってほしい、と思って来たのです。

 母親大会で話して下さい、と言われた時、自分の子どもたちが被爆二世と呼ばれることを恐れて二、三回断ったのですが、話すことになりました。


大石
 三浦さんに、今までのお話を聞いて感想などありましたらお願いします。

三浦
 山崎団地に住んでいる三浦です。広島に特殊爆弾がおち、そのあと敗戦になったわけですが、その後生活がガラっと変わりました。進駐軍(しんちゅうぐん)というのがやって来て日本を占領し、日本から主権をなくすという考えてもみなかったような事態におちいりました。

 戦争そのものの、連合軍に関する情報の真相が、自分たちに有利なものしか、しかも小出しにしか出されなかった、ということで、その後、戦争の経過、戦争に使った武器、戦術、戦略等をわれわれが知ったのは、ずいぶん後のことです。

 皆様ご存じのように、原爆の事実を、とくに写真などは、ずっと後になって我々にみせたわけです。

 当時、五十年間草木もはえない、といわれてきた広島でしたが、兵器として、医療として、国家として戦争を遂行(すいこう)する上で、非常に不明な点があったのではないかと思います。戦力を保持することによってお互いに対立する、それを核に頼るということで核抑止ということばが使われるようになりました。

 今度は兵器では中性子爆弾、水爆、ということになりますが、幸い敗戦から四十四年、われわれは少なくとも戦争というものを体験しないで過ごしておりますが、これもあるいは偶然(ぐうぜん)かも知れません。あるいはそのために多くの人たちの努力があるのかも知れません。

 やはり貴重な体験をされた方の意志を、われわれが戦争体験のない人にしっかり伝えていき、運動をしていきたいと思います。そしていつまでも平和がつづくように願います。

篠原平太郎 (当時二十八才 陸軍軍人)
神戸美和子 (当時七才 小学生)

(町田市公民館主催 1989年
平和のための市民講座報告集より)
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  1. 2005/05/26(木) 20:24:49|
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