「未来への伝言」核兵器のない世界を・・・
~町田市原爆被害者の会(町友会)編 「未来への伝言」被爆の証言を伝え、核兵器のない世界を~

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広島で被爆した人たちはいま

広島で被爆した人たちはいま
               柴田俊郎

(当時十九才 広島工専学生)

 私は当時広島工専の学生で千田町の校舎で授業中であった。空襲警報解除で授業が再開された。教室で閃光と同時に吹きとばされ、瞬間真っ暗になり、手さぐりで外に出ると、市の中心部は火の手が上がっていた。

背中の一部を火傷、負傷で似島に行き一晩泊る。ここで顔・手・足の皮がたれ下がり、赤むけの肌を出した人、火傷により水を欲しがっている人の声、皮膚のやけただれた臭気、痛みを訴える声を聞き、地獄におちた気分であった。

 爆心地より三・二kmの地にて被爆し、第二次程度の火傷ですみました。黒い雨にもあわず、無事に過ごしております。

 原爆の生き残りの一人として、原爆の被害が大きく、核兵器の恐ろしさを知ると共に、被爆後四九年、未だに原爆の後遺症で苦しんでおられる多くの被爆者の全快を祈ると共に、核兵器が地球上より早くなくなる様、二度とこのような事が起こらない様願っています。


 柳田操 

(当時二十二才 陸軍船舶兵見習士官)

 その当時私は、二十二才の陸軍船舶兵見習士官で、広島宇品の陸軍船舶司令部間にある、船舶練習部で船舶操縦の士官教育を受けていた。
この船舶司令部の施設は、紡績工場を接収したもので、我々が教育を受けていた場所は元女工さんの宿舎であった、木造二階建て大部屋和室の畳をあげて、板張りの床にした所に、机椅子を持ちこんで教室にしたものであった。

 八月六日は常のように八時には、数十名の見習士官が二階の教室に集まっていた。教室は南側(海側)に窓があり、北側(街側)は廊下になっていた。
八時過ぎ教官が見え、授業が始まった途端、南側の窓から見える隣の屋根瓦に、真白な光の玉がピカッと強烈な勢いで光った。

 一瞬何が何だか分からずに、立ち上がった途端に爆風のようなものが襲い、机、椅子が動き、文具が飛び散り、怪我人が出たが、我々の教室は幸い、暑さ凌ぎに窓建具を全部外して、部屋の隅に立て掛けてあった為に、怪我人は出なかった。隣に見える屋根瓦が所々ずれ散っていた。
北側の廊下に出て、街(広島市)の中心部の方を見たら、灰色の入道雲が立ち上がり、盛んにもくもくと動いていた。

 午後になり、部隊内の週番士官により、「文官教官の家族が広島市内に居るが、安否が不明なので探索に行ってほしい」との依頼があった。
場所は白島町で、そこは宇品から見ると、中心部を通って対角線上の真北にあった。私を含めて三人の見習士官がこれに応じて探索に出かけることになった。

部隊の営門を出たのが夕方であった。市内電車の通る大通りを市内中心部に向かった。宇品町の辺りは家が傾く程度であったが、市内に近づき、御幸橋を渡る頃には、電車通りが電柱や市電の鉄柱と架線が横倒しになった上に、破壊された器物が散乱し、市電の焼け残った残骸があり、馬の黒こげの死体が転がっていて、前に進むのに難渋した。

 辺り一面に見渡す限り、建物がペシャンコになり、瓦が地面一杯にしき並べたようになり、その下から真っ赤な炎がメラメラと立ち上がっていた。
白と黒の煙が渦巻き、異様な臭いが漂い、人の気配のない、何とも不気味な景観であった。動ける人は昼間の間に避難したと思われた。時間はもう真夜中であった。
初めて出た市内で何処が何処だかわからないまま北へ北へと進んだところ、広島城のお堀に突き当たったために右廻りに進み、城の北側にある白島町についた。真夜中の二時頃だったと思った。

ここが家が半壊している程度で、無事な教官の家族を探し当て、帰路は広島駅に出て、宇品鉄道の線路づたいに、宇品の船舶司令部に七日の明け方戻った。

その時にはもう司令部内には「原子爆弾だ」というアメリカ側の放送を傍受していた。その日から船舶司令部は臨時の野戦病院となり、数百人の被爆市民を収容し、我々は数日間看護に当り、被爆者の悲惨な情況をつぶさに体験した。

罪のない一般市民をこんな生き地獄にまきこむ、原子爆弾の使用は絶対に許されるものではない。

 わたしは戦後、幸いにも病気による苦しみに合うことなく過ごしてきた。わたしは、戦後制定された、戦争を放棄した日本国憲法をあくまでも守りたい、原子爆弾、核兵器の製造、そして使用は許してはならない。


猪原正廣
 
(当時二十七才 暁第一六七一〇部隊)

 八月六日原爆投下時は、広島市皆実町の船舶通信隊に居ました。前夜の演習のため中隊全員朝礼なしでそれぞれの部屋で就寝中でした。
 原爆投下時は、明治に建てた旧兵舎の二階北側の個室に寝ていて、南方の部隊本部方向が爆発地点で約二・八粁(キロ)、建物は屋根瓦が悲惨飛散、土居葺の赤土が真っ黒になり落下し、鼻の穴が土埃で苦しく、二階の個室から北側の庭へ飛び降り、早速防火用水に着服のままとびこみ、塵芥を落としました。

そして一階で壊れた建物の下敷きになった兵隊の救出、毎日死亡した兵隊や民間人の火葬に従ったのでした。比治山の下に仮兵舎を建て、残務整理の終わった十一月頃復員しました。

 被爆当時は外傷はなく、頭髪や眉毛が毎日ボロボロとぬけてきましたが、復員後三年目に鹿島建設に入社して設計の仕事をしていました。
朝は血圧が下がり、寒くて酒を飲んで何とか仕事をしていましたが、昭和二十六年日赤にて検診を受け、白血球が二万~三万単位に増加、赤血球が四百~三百単位に降下していることが判ったが、薬も判らず、毎日酒を飲んで元気を取り戻す様に医者(塩崎診療所)にすすめられ、酒で血を洗った次第です。

 被爆者として訴えたいこと、二度と戦争のない国家及び国民の存在を世界にアピールすべきであること。国同士の争いはすべて外交で処理すべきであり、軍隊を動員することは人民の不名誉であり、断じて避けるべきである。


山口幸七 

(当時二十五才 陸軍船舶幹部候補生隊通信中隊区隊長)

 原爆投下時は香川県豊浜町にいたが、軍命令で、八月七日夕方、船舶司令部の桟橋に上陸した。
宇品港周辺や司令部には被害はほとんどなかったが、電車通を皆実町に近付くに従い、民家の屋根、壁などに被害が目立ち始め、暁一六七一〇部隊につくと、兵舎は人が住めないほどに倒壊していた。
 部隊副官は比治山の中腹に掘った洞窟に居を移し、指揮をとっておられた。翌日は連隊内で幾人かの幹部と業務打ち合わせを行い、九日頃から同部隊の救援活動に同行して作業に協力した。

同時に市内の被害状況を視察して回った。作業内容は主に死体の捜索、収容と燃える材料を拾い集めての火葬であった。
 死者の名前をつきとめる余裕がなく、不明のまま荼毘(だび)にふしたことは、今もって申しわけない事をしたと思っている。

 戦後になって昭和三〇年頃に虫垂炎、胃潰瘍、十二指腸潰瘍を連続して患い、体力の低下を非常に感じた時があった。被爆の影響が出たのではないかと考えている。

 被爆者は癌にかかりやすいという統計結果は常に心の重荷である。

 平成二年四月、甲状腺の機能低下が発見され、医者漢詩の下に、現在もホルモン剤を飲み続けている。

 被爆者として訴えたいこと、町田市原爆被害者の会(町友会)に直接参加して、被爆者を守り、国家補償の援護法の改正に努力する。
 そして世界に向かって地球上の軍備から核をなくすこと、太平洋戦争に関係した各国の協力を得て、正しい歴史認識の評価を行なうことを心から訴えていきたい。


池田健三 

(当時六才)

 私は父が入院中の広島市双葉里町の吉田病院で被爆しました。廊下から庭へ爆風で吹き飛ばされ、気が付くと、病院の建物は倒壊、庭の大きな木は何本も倒れていました。
空は雲がもくもくと動いているようでした。幸い父は倒壊した家からはい出し、家の下敷きになった母を助けて病院の裏の二葉山を越えて逃げました。
 
 山の中腹から市内を見渡すと、一面火の海でした。途中、火傷を負った何人もの人に出会いました。

「水、水」と水を求める声が今でも耳に残っています。芸備線のある駅まで歩き、貨車に乗って疎開先の玖村までいきました。夕方薄暗い頃着きました。
 途中配給を受けたカンパンの味が忘れられません。

 被爆後今日まで幸いにも概ね健康で過ごしてきました。父が昭和二十八年、癌で亡くなりました。被爆後の市内へ何度も出かけており、何らかの影響をうけているのではないかと医者は言っておりました。

 原爆のことはなるべく考えないことにしておりますが、何か不調なことがあると、なんとなく原爆の影響ではないかと思ってしまいます。
 目下、白内障になっておりますが、右目は光線を受け、若干ヤケドの様になりましたので、この原因に被爆ありと思っています。

 今、被爆者として、とくに変わったことはありませんが、このまま、安定した生活が続けられればと思っています。


 教重美代子 

(当時十六才 市女生)

 わたしは当時、広島市段原末広町に住んでおりました。一瞬のうちに人生の変わった八月六日、私は学徒動員で日本製鋼所に、油のにじんだ戦闘帽、作業服を着て、旋盤(せんばん)機械で機関砲の弾を作っておりました。八月六日は工場の電休日で家におりましたので助かりました。

 最近聞いた話ですが、六日の休日は、建物疎開の後片付けに出るのは不当であると先生が交渉され、七日に動員することになっていたそうです。
 一日ずれていたら、私達は今こうしてこの世にいられないのだと思うと、ぞっとします。ほんとうに人の運命をつくづく感じます。

 自宅はほとんど破壊され、住むことができなくなりました。その日の夜は東雲町のぶどう棚の下で野宿をして翌日矢口の知人の宅へご厄介になりました。
 そこは、安田(女学校)の一年生の娘さんが亡くなられ、お葬式の準備の最中でした。全身包帯でまかれ、「ウミ」が滲み出ており、どんなにつらかったことか涙しました。十日に漸(ようや)く島根県の母の実家に辿りつきました。

 母は左足の「スネ」に家の「ネダ」がおちてざくろが口をあけたようになっていましたが、消毒だけの簡単な手当てをするのがやっとでした。痛みをこらえよくがまんをしたものだと思いました。

 九月に広島に戻って、横川から宇品まで見渡せたのにはびっくりしました。一発の原子爆弾で一瞬にして広島全市が壊滅してしまい、恐ろしいことだと思いました。また、この原爆で叔父は亡くなり、従弟は未だに行方不明のままです。

 核兵器は人類の破滅です。核兵器は絶対になくしましょう。

 被爆後二~三回、鼻血、下痢がありました。現在は高血圧、腰痛で悩んでおります。常に原爆症のことは頭にあります。わたしたちのような被爆者を再び出さないために、核兵器は絶対になくしてほしいと思います。


本田美智子

(当時十六才 女学生学徒動員中被爆)

 私は学徒動員で広島専売局にて被爆しました。妹は学生で勤労奉仕に出ているときに犠牲になりました。

 科学を悪い方向への進歩は絶対にあってはならないと思います。体の方はおかげ様にて今まで無事にやってこれました。


 本田租

 (三十四才のとき広島被爆)

 中国塗料の社員でした。八月五日午後、トラックで徴用の若い娘さん達を引率して佐伯郡五日市の奥八幡川上流の砂古谷に向かい夜着いた。
 爆心地から八キロ位、八月六日朝、ピカッとひかりドンと爆風、市内から砂古谷にきのこ雲が近づき雨が降ってきて小屋に入る。八月七日朝トラックで吉島本町に戻ることとなった。被爆地に入り、う回して明治橋を渡る。
 道も焼け跡も真っ黒な死体でいっぱい、ほとんど女、子供、老人。防火水槽に頭からつっこみ、尻だけが黒こげの死体、赤ん坊をかかえた母親の死体。
 二日目でも明治橋は地面がやけていて熱く、靴をはいていても歩けない程だった。

 呉の工廠から派遣されて広島居きていた弟は、大手町で被爆したが現存、母は自宅で被爆、姪は大手町で被爆、二年後に死ぬ。
 
 その後砂古谷に往復、九月に二度台風があって雨に洗われ、白骨となって死体が川岸、道、本川小学校辺にきっしり、思い出したくないが忘れられない凄惨な光景である。

 戦後になって、胃潰瘍、アレルギー等がつづき、代々木病院で肝臓が普通の半分しかない事も分かる。

昭和十九年突然の痛みで白濁した右眼は昭和四十一年破裂、黒い眼がなくなり、以来片眼完全失明、昭和二十三年、洋服の製縫業で軍に徴用され、上海で縫製していて妻が出産後死亡、広島に帰還した夫と結婚、三人の子どもを被爆後の多病とたたかいながら育てる。

昭和二十五年実子出生、東京に移転してからも縫製業を続けていた夫は十三年前に死亡。多病、苦労つづきで二十年あまり代々木病院で医療を受け、健康管理につとめ、前向きに日々を送っている。
 東友会や町友会の活動は全面的に支援している。日本政府のやり方は信用できない。核兵器廃絶を訴えつづけていきたい。
 

 湊徳夫

(当時十五才 県立二中生)

 学徒動員で兵器工場(広島市川口町)で被爆しました。身内で母、兄、姉をなくしました。戦時中空襲で親族を亡くされたお気の毒な方々は多くおられ、同情を禁じ得ません。

 唯、被爆者はこれらの方々と決定的に異なることは放射能の影響の不安が、被爆後一生続くことです。“原爆許すまじ”の原点はここにあります。


 城戸口照子

 (当時十一才 広島)

 当時のあの悲惨なありさま、脳裏に焼きついてはなれません。当時の話、映像で見ると心の奥から涙があふれてきます。
 被爆して八月八日に亡くなった父の話してくれたこと、私の見た広島の様子、話したくてもあまりにむごい出来事に心のふたがしまったように何も語れませんでした。
 語りかけると涙と共に嗚咽(おえつ)となり言葉にならなかったのです。

 今では年月も経ち、私も年を重ね、話せるようになりましたが、真剣に心からきいてくださる方ですと、当時に心が返り、涙が出てしまいます。幼なかった私の心の奥底に大きな痛みとして焼きついているようです。

 今の平和、本当にありがたく感謝です。これからの地球人類に核兵器ゼロ、戦争のない平和が続くことを祈らずにはいられません。


佐藤浩

(当時大学生二十一才 広島)

 決して戦争しないために次の三つを守っていただきたい。

一. 政府やマスコミの扇動的な宣伝を信じない。この前の戦争は政府などの宣伝と誘導で、国民が感情的に戦争開始を支持したために始まった。決して一部の軍人が始めたものではない。二度とこのようなことがあってはならない。

二.  常に駐留軍や防衛費を縮小するように努力をする。アメリカ軍は戦争することを目的として戦争し、防衛庁も戦争するために軍備を増強している。
 戦えば、負ければ当然だが勝っても大きな被害をうける。日本を戦場にしてアメリカが戦ってくれてもひどい目に遭うのは日本人だけだ。

三. 困っている外国に温かい支援をする。

 戦争をしないで隣人とつきあうためには親切に接するよりない。たとえば現在、北朝鮮の人々は食糧の不足で飢えに面している。それに対する人道的な援助を行なうのは当然のことである。


 原田一男

(当時三才 広島市白島)

 友人、同僚、同窓に自分は被爆者と永い間言えずに卑屈になりがちでしたが、妻と結婚してもしばらく言えずになやみました。現在は妻にも子供にも理解を得ていますが、まだ、一般、友人、同僚同窓には言えずになやんでいます。

 また、被爆当時三才なので記憶がほとんどありません。母を原爆で亡くしております。


 山崎孝次郎

(当時二十才 暁一六七一〇部隊兵長)

 私は比治山町の一六七一〇部隊兵舎内にて被爆、左ろっ骨不全骨折、左顔面右手甲火傷、前夜空襲警報のため徹夜だったので翌六日朝食後就寝その直後被爆したので、被爆時のことは記憶にない。
ただ負傷したので医務室に行く途中で見た、屋外にいた人たちのやけただれた皮膚、ふくれ上がった顔、泥人形のようになって死んでいる姿などは、今も眼の底にやきついている。
 何がおこってこんなことになっているのか、何も考えられず、ほんとうに恐ろしいという感じもおこらなかった。

 除隊後、学生、社会人となるにつれて、病気のことが常に心配で、毎年白血球の検査に一喜一憂していた。

 人並みに結婚したが、今度は生まれてくる子供に影響はないか、子供が結婚して孫が生まれてくると大丈夫か等々、これまでの人生で原爆の影におびえないことはないといってもよい程暗い日が多かった。

 現在の医療機関の先生方はどなたも言う。
「これまで生きてきたのだから、もう原爆の影響はないでしょう」と。この言葉を信じない訳ではないが、これまで生きてこれたかと、感謝して余生を静かに生きたいと思う。

 近代社会のエネルギーとして原子力の必要なことは判るが、これを戦力として用いることが出来ないように、国連で禁止条項を気見るように努力してほしい。


 和木主彦

(当時十二才 広島県立工業生)

 ピカドンの直前、日本の戦闘機はとびたっていったが、米軍機が広島上空に侵入するや、日本機は逃げるように吉島空港に。。。日本の敗戦を現実の問題として実感した。

 学校前の元安川堤防通、ピカドン後は逃げる人の群れ、その中で一組の親子・水を。。水を。。と叫ぶ声の連呼、水を飲めばどうなるか、わたしはわかっていたが、その親子に水を差し出した。その母子は静かに眠りについた。永遠に。。。今でもわたしは罪の責任を感じている。

 毎年、原爆の日、中学の同級生がほぼ全員死亡していることを思い出すとき感じることは、自分だけが生き残ったことが幸福だとは思っていない事だ。

 父親は当日広島市役所で直接被爆、その後胃ガンで亡くなったが、多分自分はそうなるだろうと考えると、アメリカの対外戦術に強いいきどおりをおぼえる。

 もう二度と経験したくないものである。


末国伴枝 

 (当時十六才 松江市立高女生)

 当時、呉海軍工廠に学徒動員中、狩留賀の寄宿舎から急遽帰郷が決定、広島に向い、広島駅から山陰木次線列車待ちのため、焼け野原に数時間居た。原爆が落ちた時は工廠内学徒たちは我先にと、必死に走って山手の防空壕へ入った。
 投下の瞬間は写真をとるときたくマグネシウムの様、一瞬目の前がくらみそうな光、その後ドーン,あれはなんだ、何がどうなったのか、工員さん達の指差す空はムク・ムクときのこ雲をみて、江田島の火薬庫が爆発したのかと伝えられました。

 昭和二十年九月、女学校卒業式、十月から日立製作所安来工場に元気で勤務する。その間に上下の歯はだんだんぐらぐらし出し、二十七才で上三本、下四本が義歯でも身体はおかげ様で健康でした。

 三十三才で結婚、三十九才で二人目の女児出産、この子が障害があり、その頃ようやく島根県の松江市の友達が、東京の人達六人が早く被爆手帳をもらう様にと言ってきたのが、初めてその様な動きがあることを知り、手続きをするけど、白内障の眼科の医師がつめたくてとても大変でした。

 戦死者、被爆死者、大勢の方々の御霊様のご冥福をお祈りいたします。戦争は殺し合いです。何を使って殺人してもよいものではないし、その前に戦争をしない様な国々であってほしい。人間だけが知恵をもった動物、その知恵をよりよい方に生かして地球の生物の共存をこそ願っています。


中川美代子

 (当時三十才 広島市東千田町で被爆)

 八月六日午前八時十五分,外出する寸前台所に立っていたら突然ぱっとあたりが明るくなり、なんだろうと思う瞬間ぐらっときて、障子、襖がとんでガラスが飛び散る、額に手を当てると血が流れてきて、あわてて布を出し傷口に当て、急ぎ外にとび出し、近くの日赤病院へ走った。

途中で大勢の人に出会い、日赤では負傷者が満員で診てもらえないとの事、引き返し家に帰ると近所から火事になり、避難命令が出て、家の者三人で宇品まで行き、広陵中学の門前で松の陰に場所をとり、午後軍医の手当てをうけた。
 傷が深いと六針ぬってもらい、一晩野宿をして、次の日移動して広大のグランドの体育館におちつく。主人を軍隊まで生存を確かめに四キロ歩いていく。顔中はれてしまう。無地で生きていてくれた。  

 被爆後は呉市に帰る。主人の父母と同居する。傷の手当に病院通いを一年余りする。その中に体内に子供のできている事がわかり、二ヶ月頭痛がしたり、傷がいたみ不快な日がつづくが、二十一年四月に女の子が生まれ、小さな子供がぶじに育つか不安の中に何とか育てなければと、原爆の恐ろしさが判ってくると、その影響を思い、我が身より子供への思いがいっぱいで悩み、心の苦しみへと変わっていく。

体内被曝の娘が、小・中・高時代に周囲の人に被爆者であることを隠し、大学生になると、将来の事を考え一層苦しみが増し、夜も寝られない日が続き、卒業の後、結婚問題に直面し、被爆者であることを隠す事に悩み、深刻になってきた。

 現在は年もとり、今日まで生かされてきた事を何よりも嬉(うれ)しく感謝している。
 町友会もできて、原爆に対する理解も世間に知られ、自分は被爆者という言葉を誰にでも話せる様になって幸せと思う。生きている限りは被爆者という心の痛みは消え去らない。

 二度と再び核兵器の投下されることのない様心から願う。広島・長崎の悲しい思いを世界各国の人々にも決してさせてはならない。
 機会ある度に、若者に原爆のことを話し続け、放射能の恐ろしさを訴えていきたい。


 中川秀曽

(当時二十五才 中国第一一四部隊軍人)

 当日私は白島町の部隊本部付として恩賞功績室に居た。その時部隊は裏門から応召兵が入ってきたので、知った者はいないかと見渡していると、急に応召兵が散ったと同時に「ピカーッ」と一瞬木を失った。
 気が付いたとき私は事務室の入り口まで吹き飛ばされていた。正確には爆心地の方向に吸いこまれていたのかも知れない。

 見渡すと建物の崩壊により、兵士が血だらけで右往左往していた。いわゆるケロイド、火傷は窓側にいたか、建物外にいた人達を無差別におそったもので、その症状は二~三日後に発見された。


 對馬弘美

 (昭和二十一年四月十四日生まれ)

 胎内被曝のため、被爆については自覚はありません。当時のフィルム、映像や体験者の証言によって知るのみです。現在まで病気や生活の苦しみを味わうこともなく幸せに生活しております。将来的には不安もあります。

 また、被爆者という自覚はありません。しかし、現在誰でもが被爆者になり得る環境にあるのではないでしょうか。原発、原潜、核実験など、被爆者はその事実、体験を語ってほしいと思います。


 沖本勝子

 (当時 国民学校一年生)

 私は広島市打越町四八九番地の自宅から広島県北婆郡東城町田森に疎開しており、八月六日午前八時十五分原爆には遭遇しませんでした。爆心地から二㌔程だった生家は火災からは免れましたが、爆風により半壊しました。瓦礫と化した家、雨もりの屋根の下での生活でした。
 その様な中で毎日の様に訃報(ふほう)が入りました。朝早く親戚の人が自転車で知らせて下さいました。あの人が亡くなった、この人も亡くなったという話ばかりでした。その内その連絡に来て下さった元気だった人も亡くなってしまいました。被爆後数日のことでした。

 入市の経路や日時は正確な記憶はありません。父方(打越町)母方(白島九軒町)の祖父母をはじめ、親戚中の人が被爆しました。実家の家屋は大きく傾き、屋根もふきとび夜は寝ていて星が見えました。

床もぬけおち、どうにか残った畳に大火傷の祖父が寝ていましたが、傷は化膿(かのう=うむこと)し、それにハエが卵を生んでうじ虫がはっていたのを見た事があります。二~三時間おきに薬をぬるため、またがれきの中を台所まで水汲みに往き来して、その後病気になりました。

 家を焼かれた母方の祖父母は掘立小屋を建て、祖母は当日の打撲傷で顔が紫色になっていました。そんな中独り生き残っていた姉妹がある朝その祖母の腕の中でなくなりました。父母が亡骸(なきがら=死体のこと)を川原で焼きました。(神田橋近く)

 中東戦争や最近のルワンダの難民問題、世界中の戦争をテレビで目の当たりにして同情し心を痛めております。世界中から原爆資料館を訪れた人々は展示品に思わず目をそむけると聞いています。
しかし、違います。被爆の被害や光景は中東やルワンダ以上の悲惨さでした。まさに地獄でした。正気の沙汰ではありません。痛かったでしょう。熱かったでしょう。喉が渇いたでしょう。水が飲みたかったでしょう。当時もしメディアの時代だったら世界の人びとは心を抉(えぐ)られていたでしょう。

 五十年目の節目を迎え、これまで亡くなった多くの人、今も次々と亡くなっていく方々のご冥福を改めてお祈りいたします。一種運にして死を迎えた人々は何を言いたかったでしょうか。

 残った者は代弁者として今後絶対に核兵器を許してはなりません。


 玖村敦彦

(当時十八才 広島高校-旧制―生)

 昭和二十年八月、自宅は牛田町にあった。本人は海田市の日本製鋼所に勤労動員され、原爆投下時には同社の工員寮にいた。原爆投下により、広島高等学校(旧制)生に多数の行方不明者が出たため、投下当日からたびたび広島市内に入り、捜索、救援活動を行った。

 投下後一~二週間から障害が現れた。主な症状は下痢、小さな傷までことごとく化膿しいつまでも治癒(ちゆ)しないこと(これら二つの症状は翌年三月まで続く)極端なだるさであった。
 一週間ないし十日を一周期として前半は極端にだるく、後半は正常な状態という判でおしたようなパターンがみられた。これは原爆投下後二十二~三年延々と続いた。

その後はパターンが次第に不鮮明となり、かつ症状の強度が徐々に減少した。とはいえ、だるさは、完全な解消にはなかなか至らず、だるさがおとずれたときの辛さは、やはり相当なものであった。幸い、最近の体調は比較的よい。

 自らの人生を顧みると、持てる力の半分でだるさとたたかい、他の半分で社会人としての働きをしてきたように感じる。


 木谷始  (故人)

(当時十六才 広島師範学校予科二年)

 わたしは原爆投下時、紀元二六〇〇年(1940)記念に植えられたという、海田市の先の山奥にあった学校林(杉の林)の下刈に出ていた。皆実町の寮から十六キロ離れた場所である。

 八月六日八時十五分頃は鎌をといでいた。ピカッと光った後、山林の木がザワザワとゆれたのをよく覚えている。夕方市内に帰る途中“助けて!助けて!”とすがりつかれたが、団体行動の中ではどうすることもできなかった。

 帰寮後は学校長の訓辞を受け、建物の下敷きになっている同僚の掘り作業に移った。遺体は廃材で棺桶をつくり、火葬にした。
 
 思い出せばきりがない程悲惨で痛ましい状況が胸裏に浮かぶ。教え子を再び戦場に送るな、ああ許すまじ原爆を。
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  1. 2005/05/27(金) 20:57:35|
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